【企画展】「つながる!復帰50年と琉球大学」特設ページ

 タイトル:つながる!復帰50年と琉球大学
 開催期間:2022年5月10日(火)~2022年6月30日(木)
 場  所:図書館本館3階 ホール
  ※この企画展は学外者の方もご見学いただけます。見学希望の方はご来館の際、カウンターにて職員にお申し出ください。


 


 2022年は、沖縄が1972年に日本へ「復帰」してから50年の節目の年です。また米軍統治下の1950年に産声を上げた琉球大学にとっても、「復帰」は重要な節目のひとつでした。国立大学への移管をはじめ、沖縄の「復帰」に至るまでのプロセスと連動しながら、当時の琉球大学内でもさまざまな動きが見られます。

 沖縄の戦後史と琉球大学が経験した「復帰」の歴史を豊富な写真資料や解説パネルで展示し、現在にもつながる沖縄社会の課題や「復帰」に対する人々の複雑な想いを学ぶことで、次の50年へとつなげる企画展となっています。
 

 なお本企画展では、写真資料を豊富に用いて、この時期の歴史が辿れるように展示を行い、関連する図書館資料の紹介を行っています。展示する資料は、本学が保有するものだけではなく、沖縄県公文書館や那覇市立歴史博物館、沖縄アーカイブ研究所といった県内の各機関が保有する資料からも幅広く用いています。また、本ページでは、写真資料や映像資料といったデジタルコンテンツを掲載しており、オンライン展示も行っています。





展示の様子



展示図書



オンラインギャラリー

 ※【琉大関連】・・・琉球大学に関する出来事
 ※【琉大図書館】・・・『琉球大学附属図書館 図書館年報』に記録された出来事
 ※とくに注記のない写真資料は琉球大学および附属図書館の所蔵資料である。


プロローグ(沖縄戦から琉大開学へ)

 太平洋戦争の末期、沖縄本島とその周辺離島で展開された沖縄戦(1945年)では、「鉄の暴風」と呼ばれた激しい艦砲射撃を受け、戦没犠牲者数が推定20万人(県民・それ以外の人々を含む)にのぼるなど甚大な被害を被りました。1945年7月の連合国軍による戦争終了宣言、同年9月7日の降伏調印式を経て戦争が終結。
 昭和初期に正殿の改修工事を終えた首里城は集中砲火を受け、ほぼ壊滅状態となってしまいましたが、この地に大学の設立を願う沖縄諮詢委員会のメンバーであった山城篤男氏(当時沖縄民政府文教部長)は、連合軍最高司令部琉球局長ジョン・H・ウェッカリング准将、米国琉球軍政本部教育部長アーサー・E・ミード博士と共に視察を行い、前教育部長スチュアート中佐の計画に基づいてここに大学を設置することが決まりました。こうして琉球大学は様々な困難を乗り越え、1950年5月22日、6学部、学生数562人、職員数44人で第1回入学式を挙行。開学の運びとなりました。

『[マッカーサー書簡]』琉球大学附属図書館所蔵, https://doi.org/10.24564/ot00201(←訳文はこちらから)


1960年~1972年の沖縄と琉球大学



【1964年】


永積安明教授入域拒否問題
 米軍統治下で起こった渡航拒否事件です。
 1964年、琉球大学は、神戸大学の永積安明教授(専門:中世文学)をお招きして招聘教授とし、集中講義をしようとしました。ところが米国民政府は永積教授の沖縄行きの渡航申請を却下。理由は中世文学研究者だから、というものであったそうです。中世の封建社会の研究は米軍が沖縄を支配する上で都合が悪い、という判断だったと思われます。
 これに抗議し、1964年5月には琉球大学国文科の学生を中心に招聘実現署名運動が起こりました。県内でも大きな抗議活動となり、日本では神戸大学や日本の各新聞でも取り上げられ、社会問題となりました。その間、永積教授は、渡航を何度も申請して何度も却下されるということを繰り返しました。社会的問題となって抗議が大きくなった結果、1964年の末に米国民政府は永積教授に渡航を許可しました。この事件は、米軍による渡航制限(拒否)問題をクローズアップしただけではなく、学生を中心にした抗議運動が、米軍を譲歩させた出来事としても注目されました。
 なお、琉球大学で行われた永積教授の講義は人気でしたが、同時に教室内に米軍の”スパイ”もいたそうです。講義内容は米軍に報告され、永積教授は呼び出されて、このような講義をしてもらっては困る、というような注意を受けたとのことです。



1965年】
 
 1965年8月 佐藤栄作来沖

 「私は沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとつて「戦後」が終つていないことをよく承知しております。これはまた日本国民すべての気持でもあります。」 







「佐藤栄作総理大臣来沖 那覇 民政府会議室に到着 ワトソン高等弁務官と」(沖縄県公文書館所蔵)

 
 1965年8月15日 【琉大関連】琉大二法制定(琉大設置法、琉大管理法公布)


琉大国立化に向けた動きと反応
 1965年、「琉大二法」の制定により琉球大学は米軍政府の布令大学から琉球政府立へと移行します。政府立時代の琉大は、結果的に国立化に向けた移行期となりました。1967年7月29日の沖縄問題懇談会において、復帰に伴う琉大の「国立化」に関する答申が出されると、琉大当局内でも国立化に向けた機運が高まりました。すでに65年ごろから学長の本土での会議出席など、本土との交流が盛んになっていく様子がうかがえます。当時の『図書館年報』をみると、図書館職員の本土での研修参加や国立国会図書館からの寄贈など、それまでには見られない動きが記録されています。
 1970年に発足した「琉球大学基本構想委員会」では、若手教員を中心に国立移行後の将来構想が検討され、「総合性の維持発展」「地域的特性の発揮」「新教育制度に基づく運営の保障」「既存の専門分野における教育と研究の維持」の4点を骨子とする答申「琉球大学の基本構想について」が学長へ提出されました。
 一方で、学内では学生を中心に「国立化」に反対するデモも起きており、この時期の『琉大学生新聞』では琉大国立化に関する内容に多くの紙面が割かれています。国立化に伴う学費の値上げや大学行政の在り方などの諸問題について度々大学当局との「団交」の場が持たれました。



1966年】

 1966年7月1日 【琉大関連】琉球大学、琉球政府立移管

 1966年12月2日 友利・サンマ事件判決(米民政府裁判所)

 米国民政府(USCAR)は、二つの裁判(友利裁判・サンマ裁判)に関する琉球民裁判所(琉球政府の司法機関)の裁判権を取り消し、USCARの裁判所へ移送しました。サンマ事件は「サンマデモクラシー」というドキュメンタリー映画(2021年公開)になっています。
 「友利・サンマ事件」の詳細と関連資料については、沖縄県公文書館の「琉球政府の時代」を参照



1967年】

 1967年2月 教公二法廃案

「教公二法」とは?
 教公二法(「地方教育区公務員法」および「教育公務員特例法」)の制定をめぐる闘争です。1960年代にアメリカの沖縄政策は行き詰まり、革新勢力が保守派を追い上げ始めました。革新派を抑えようと、この二法案によって中心的存在だった沖縄教職員会の政治活動を制限しようとしました。民主化要求、復帰運動への抑圧だ、と大きな反発を招き、強行成立をしようとする立法院を民衆が取り囲んで抗議し、大衆運動の力によって廃案となりました。米軍は直接的介入を回避しています。沖縄戦後史の大きな転換点のひとつと言われています。



 1967年3月22日 【琉大関連】金城キク女史寄贈の風樹館(自然科学標本館)落成式

 1967年9月16日 日本政府による琉球住民へのパスポート発行が可能となる



1968年】

 1968年6月30日 【琉大関連】ミシガン州立大学との教育交流協約が終結

   ミシガン州立大学と琉球大学との関係については漫画「琉大創立物語」を参照。



 1968年9月28日 【琉大図書館】文部省主催大学図書館職員研修会のため職員出張



 1968年11月11日 戦後初の琉球政府主席公選で屋良朝苗が当選

 
 1968年11月19日 B52墜落爆発炎上

B52とは? 
 アメリカのボーイング社が開発した大型戦略爆撃機のことです。爆撃能力が高い・爆弾を大量に積める・核爆弾を搭載できるという高性能機のため、ベトナム戦争で頻繁に使用され、「黒い殺し屋」として恐れられていました。ベトナム戦争とは、1965~1975年、南・北に分断されたベトナムの統一をめぐる戦争です。南はアメリカ、北は当時のソ連・中華人民共和国が関与していたので「冷戦時代の代理戦争」とも言われています。
 1968年11月19日、嘉手納基地を飛び立とうとしたB52爆撃機1機が離陸直後に失速、基地内で爆発・炎上するという大事故が起きました。炎上の影響は知花弾薬庫近くの原野まで及び、付近住民を巻き込んだ戦場のような混乱状態となりました。この事故により衝撃を受けた県民は、同年12月に「命を守る県民共闘」を結成、B52撤去闘争が全琉へ拡大していきました。



1969年】

 1969年2月3日 【琉大図書館】午前零時図書館封鎖さる(3~4日) ゼネスト(県民大会)

 ※この時期から学内で行われたストライキの影響で度々図書館が封鎖されており、『琉球大学附属図書館 図書館年報』に関連する記述が見られます。



 1969年2月4日 二・四ゼネスト (B52撤去・原潜寄港阻止)



 1969年2月5日 【琉大関連】琉球大学国立化問題等審議会

 

 1969年4月26日 【琉大図書館】午前零時図書館封鎖さる(26~28日) 日本復帰要求県民大会

 

 1969年11月22日 佐藤・ニクソン共同声明(沖縄の核抜き72年返還・本土並みの確定)



1970年】

 【琉大関連】ゴルゴ13が琉大に潜入!?

 ゴルゴ13ことデューク・東郷は少なくとも3回、沖縄に現れています。その内の1回は、「日本復帰」前の1970年1月の作品「Dr.V・ワルター」において、琉球大学でのミッションが描かれています(さいとう・たかを『ゴルゴ13』vol.4、リイド社、2002年)。旧ソ連で電子兵器を開発し、アメリカに亡命したワルター博士の狙撃をゴルゴ13がKGBから依頼されたのは、激しさを増す当時の東西冷戦を背景としていました。琉大の講堂らしき建物の中でワルター博士が講演する際、講堂から離れたビルの窓から狙撃するという設定になっています。
 ただ、当時の琉大に講堂はなく、体育館がそれに当てられています。また、狙撃ポイントは講堂(体育館)を見下ろす場所となっていることから、恐らく附属図書館に隣接した理系ビルからではないかと思われます。フィクション作品の正確さを云々することにあまり意味はありませんが、琉大生のアジ演説を描いている点など、当時の首里キャンパス時代における琉大の雰囲気が少しだけ伝わってきます。
 『ゴルゴ13』には、「沖縄の独立」と絡めた「沖縄シンドローム」(1996年1月作品)、2016年に名護市安部沿岸へ墜落したオスプレイ事故はゴルゴ13の狙撃によるものであったとする「琉球の羊」(2017年8月作品)もあります。フィクションではありますが、オキナワを知る入口とすることができるでしょう。これらの作品を入口として、1945年から現在にいたる沖縄の現代史を再考する専門書として、我部政明『戦後日米関係と安全保障』(吉川弘文館、2007年)、さらに沖縄の日本復帰の歴史的な意義を論じた我部政明『沖縄返還とは何だったのか』(NHKブックス、2000年)をお勧めします。(豊見山和行・琉球大学名誉教授)

 
 
 1970年1月 【琉大関連】琉球大学基本構想委員会(国立化にともなう将来構想を検討)

 

 1970年4月25日 【琉大図書館】学内不穏のため郷土資料を政府立中央図書館に疎開(44ケース)

 1970年5月6日  【琉大図書館】疎開中の郷土資料搬入

 
 1970年11月20日 【琉大関連】「琉大を国に移管し国立大とする」閣議決定

 1970年12月10日 『新沖縄文学』「特集・反復帰論」

「反復帰論」とは?
 沖縄は1972年5月15日に本土復帰を果たしました。本土復帰を支えたのは復帰運動というムーブメント。復帰運動は、日本人と沖縄人は同一民族であり、沖縄における米軍による施政権は祖国である日本へ還すべきであるという考え方です。この考え方には、基地のない状態で、沖縄が日本へ返還することが条件の一つとしてありました。しかし、同年同日に迎えた復帰の日では、1969年の佐藤・ニクソン会談で表明された「核抜き・本土並み(基地撤去)」は実行されず、沖縄で期待された基地撤去ももちろんありませんでした(小松寛『日本復帰と反復帰 戦後沖縄ナショナリズムの展開』早稲田大学出版部、2015年、129頁)。
 県民の理想とするかたちとは程遠い本土復帰となった現実に、沖縄は日本に無条件に帰一するのではなく、「反国家・半国民・反権力・反帝国主義」を目指して闘うべきであるとする考え方が現れました。それが「反復帰論」です。同論の提唱者にはジャーナリスト・思想家として活動した新川明・川満信一、『新沖縄文学』同人らがおり、日本=「母なる祖国」という幻想を打破する思想として、知識人を中心に強い影響力を持ちました。


 1970年12月20日 コザ騒動

コザ騒動とは?
 米軍支配下の沖縄では、県民に対する人権無視が横行して深刻な社会問題になっていました。そんななか、1970年12月20日未明に発生した「コザ騒動」は、歴史的大事件でした。コザで米兵が沖縄の人をはねて怪我を負わせる事故が発生。米兵に有利なように米憲兵(MP)が一方的な交通事故処理をし、県民に威嚇発砲。これまでも同じことが何度もあったから、県民は長年鬱積してきた不満と怒りが爆発し、MPカーをはじめ米軍車両に投石したり、ひっくり返したり、米軍関係車両73台を焼き打ちにしました。反米感情の強さを浮き彫りにした象徴的事件です。暴動は明け方まで続きました。ただ、関係のない一般車両や同じ米兵でも黒人兵の車両は意識的に被害を与えないようにしたと言われています。
 「コザ暴動」「コザ事件」「コザ蜂起」などとも呼ばれています。



1971年】

 1971年1月13日 第一次毒ガス移送実施 (※第二次移送は同年7月15日)


Okinawa Archives Laboratory / Yoshitatsu Niijima Film
https://okinawa-archives-labo.com/
この 作品 は クリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 国際 ライセンスの下に提供されています。


 1971年2月9日 【琉大図書館】図書館封鎖さる(全軍労解雇反対闘争スト)


全軍労ストとは?
 「全軍労」とは全沖縄軍労働組合を略した名前です。1961年に結成された全沖縄軍労組合連合会(全軍労連)が発展してできた、12の軍関係組合の連合体です。労働運動家・政治家で著名な上原康助が初代委員長となり、基地従業員に対する解雇撤回・退職手当増額ほか不当な問題を解決すべく、団体でデモやストライキを行いました。1968年には「10割年休闘争」(24時間ストライキ)を成功させ、団体交渉権を獲得。佐藤・ニクソン会談が発表された1969年、在沖米軍は基地労働者2000人余りの大量解雇を公表しますが、これを受け、全軍労が1970~1971年にかけ、大がかりなストライキを行ったことは全国的に大きなニュースとなりました。

 
 1971年6月17日 日米間で「沖縄返還協定」調印 



 1971年11月 「琉球政府の建議書」(復帰措置に関する建議書)

  →全文は琉球大学学術リポジトリにて公開中です。


琉球政府の建議書(復帰措置に関する建議書)
 1972年の復帰を前に、1971年11月に琉球政府が作成したのが「復帰措置に関する建議書」です。基本的人権の尊重、県民福祉の向上を中心に、「(1)地方自治権の確立」、「(2)反戦平和の理念をつらぬく」、「(3)基本的人権の確立」、「(4)県民本位の経済開発等」の4つを柱として「新生沖縄像」を描いています。
 この建議書は琉球大学学術リポジトリから全文を閲覧することができます。リポジトリで公開しているもの(外交史料館所蔵資料)には、建議書本文に加えて外務省内でのやり取りも収録されています。建議書を携えた屋良主席の上京を前に、高瀬侍郎大使(沖縄復帰準備委員会)は外務大臣宛の極秘電報で建議書の内容やその経緯を伝えました。電報によれば、屋良の上京目的は復帰に係る現地の意見、不安、心配を日本政府に伝え、政府の責任ある措置を要望することでした。また、屋良が返還協定の「反対」「粉砕」という意見に対して批判的な立場であり(「主席としては到ていその責任を負えず」)、あくまで協定に基づき復帰を進めていく立場であることが記されています。
 2022年の復帰50年にあたり、沖縄県は新たな建議書を策定する予定です。1971年と2022年の建議書はどのように共鳴するのか、注視したいところです。

 
 
 1971年11月10日 【琉大図書館】沖縄返還協定批准反対ゼネスト 休館

 1971年11月19日 【琉大図書館】学生により図書館封鎖される(沖縄返還協定反対)



 1971年12月16日 【琉大図書館】大学祭準備のため閉館(大学祭18~19日) 



【1972年】

屋良知事初登庁(沖縄県公文書館所蔵)


1972年5月15日 日本復帰(沖縄施政権返還)
 1972年5月15日、沖縄は日本へと「復帰」しました。復帰当日の「新生沖縄県発足式典」は東京と沖縄(那覇市民会館)の2カ所で同時に行われています。
 式典の挨拶で屋良朝苗主席は「沖縄の復帰の日は疑いもなくここに到来した。しかし、沖縄県民のこれまでの要望と心情に照らして復帰の内容をみると、必ずしも私どもの切なる願望がいれられたとはいえないことも事実である。そこには米軍基地の態様の問題をはじめ、内包する多くの問題がある。これらを背負い込んで復帰したわけである」と述べています。日本への「復帰」は沖縄県民にとっての長年の悲願であった一方、復帰に至るまでの紆余曲折と、米軍基地をはじめとする積み残された課題の大きさに対する沖縄県民の失望感がこのスピーチにも表れています。
 那覇市民会館(当時)隣の与儀公園では、復帰協の主催する「「沖縄処分」糾弾5.15県民総決起大会」が開かれ、沖縄住民の希望する「復帰」の実現を求める声が上げられました。また、道向かいの琉球大学保健学部ビルは、「復帰式典粉砕」を叫ぶ学生たちが占拠しており、当時の高良鉄夫学長が対応にあたっていたそうです。


Okinawa Archives Laboratory / Ryusei Oshiro Film
https://okinawa-archives-labo.com/
この 作品 は クリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 国際 ライセンスの下に提供されています。


Okinawa Archives Laboratory / Ryusei Oshiro Film
https://okinawa-archives-labo.com/
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「復帰」と琉球大学
 琉大の国立移行が決定したのは、1970年11月20日に「沖縄復帰対策要綱」が閣議決定されたタイミングです。この要綱の中で「琉球大学は、その教育組織等について必要な整備を図り、復帰の際、国に移管し国立大学とする」と定められています。これ以降、琉大当局と文部省との国立移管に向けた具体的な折衝がはじまりました。
 また、復帰前から首里キャンパスの狭隘化に伴うキャンパス移転の動きが活発化します。65年末に千原(西原、宜野湾、中城の隣接地)への移転が決定すると、翌年から地主との折衝がはじまります。しかし、交渉は難航し、本格的に動き始めるのは復帰後のことでした。
「国立移管」「西原移転」と共に復帰当時の琉大を知るうえで重要なトピックが「お金」です。沖縄では復帰に伴いそれまで使われていたドルから円へと通貨交換が行われています。当然、学費や大学予算の通貨も72年を境に円に代わりました。一方、復帰前から学生たちに懸念されていたのが、国立移行に伴う学費の値上げでした。復帰直後の時期には学内で学費値上げ反対のストライキが起きており、図書館前の広場での学生便覧焼却や図書館の封鎖も記録に残っています。

◎名城嗣明(元教育学部教授・復帰当時の学生部長)の随想より
授業料値上げをめぐって体育館で高良学長、各学部長と学生との話し合い(団交)が持たれ、その後値上げに不満をいだく学生自治会が遂に教養部に乱入して、改訂授業料額の記された新年度学生便覧を持ち出して図書館前で焼却するに及んで刑事事件に発展した。」(『琉球大学三十年』1090頁)




「復帰」と琉大図書館
 当時の図書館年報を見ると、日本復帰にあたり図書館予算が激増していることがわかります(表作成)。1972、73年の『図書館年報』は合冊となっており、凡例には「1972年度年報は、昭和47年5月15日、本土復帰にともない、国立大学に移行し、格差是正として文部省より膨大な予算が与えられたので、業務量が著しく増加して忙しく発行できなかった。本年報は1972年、昭和47年、昭和48年度合併号とし、1971年7月1日(昭和46年)から昭和48年3月30日までの3会計年度分を所載した」と記されています。この時、図書館の増員はなく、1年で「2.5年分の業務をこなした」とも言われています。復帰にともなう現場の混乱ぶりがうかがえます。

復帰前後の時期の図書館予算。1960年代後半から急激に予算が増加していることが伺える。


通貨交換
 通貨が変わることですが、沖縄の通貨は複雑な経緯があります。米軍支配の下にあった戦後の沖縄では、1972年の復帰までの27年間になんと7回も通貨の変更がありました。沖縄経済のせいではなく、米軍の統治政策上の必要性からでした。1958年以降、復帰まではドルが使われており、復帰の時の交換比率をめぐって大きな社会的混乱が生じました。



プロローグ(1973年~)

1973年5月 若夏国体

 「若夏国体」は、1972年9月に「復帰記念沖縄特別国民体育大会実行委員会」が設置され、沖縄の本土復帰を記念し、1973年5月3日から6日までの4日間開催されました。競技は、沖縄県11市町村24会場で合計21種目行われました。開会式では、波照間島で採火された炬火(オリンピックでの聖火にあたる)が、1週間をかけて県内各地を巡ったあと(リレー)、最終ランナーが奥武山運動公園競技場にある炬火台に点火。
 また、開会式では小学生・中学生・高校生による集団演技もありました。琉球大学附属図書館の某職員は当時中学3年生で、「ハーリー」をテーマに、沖縄乙女の美しさや明るさを表現した舞踊(マスゲーム)に参加したとか。話によると那覇中・上山中・古蔵中・小禄中の4校が参加、一番の思い出は当日の演技ではなく、リハーサルで貰ったおやつ(オキコのコーヒーロール)がおいしかったことだそうです。


Okinawa Archives Laboratory / Yasuo Endo Film
https://okinawa-archives-labo.com/
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1975年7月~ 海洋博(沖縄国際海洋博覧会)

 海洋博とは、1975年7月から6か月間、沖縄本島北部の本部半島で開催された沖縄国際海洋博覧会の略称です。沖縄の復帰記念事業の一環でもありました。100万㎡の広大な海洋博会場は大人気で、海をテーマにしたアクアポリスが目玉のひとつでした。
 しかし、影の部分も大きく、土地ブームによる地価の高騰やホテル・旅館や民宿の乱立、大規模な開発による赤土汚染、建設は県内企業は下請けにしかなれずに建設資金は県内にはほとんど落ちなかったと言われています。
 開催してみると、入場者は予想に反して350万人しかいかず、その後の企業倒産・失業が続いて社会問題となりました。


Okinawa Archives Laboratory / Toshio Majikina Film
https://okinawa-archives-labo.com/
この 作品 は クリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 国際 ライセンスの下に提供されています。


Okinawa Archives Laboratory / 古波津清貞 Film
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Okinawa Archives Laboratory / Shinzou Chinen Film
https://okinawa-archives-labo.com/
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Okinawa Archives Laboratory / Ryusei Oshiro Film
https://okinawa-archives-labo.com/
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1975年12月18日 【琉大関連】西原町千原移転整備工事開始





2022年5月15日 「日本復帰」から50年




アンケート・50年前と50年後のお話聞かせてください。

 本企画展と9月に南風原町で開催予定の学外企画展にて、「復帰50年と琉球大学」に関するアンケートを実施しています。ご自身が体験した「復帰」の話や琉大の思い出、もしくは家族や知人から聞いた話、それから50年後の未来像など自由にお答えいただけると幸いです。
 アンケート結果は集約した上で、12月にフィードバックする企画を予定しています。
 ご協力のほどどうぞよろしくお願い致します。

アンケートform:https://forms.office.com/r/sSXecGtuMk



展示協力

沖縄アーカイブ研究所
沖縄県公文書館
株式会社さいとうプロダクション
古波藏 契(明治学院大学社会学部付属研究所研究員、元RIISポスドク研究員)
新城 和博(琉球大学OB・編集者)
豊見山和行(琉球大学名誉教授)
那覇市歴史博物館



連絡先

琉球大学附属図書館 情報サービス課 保存公開係・サービス企画係
Mail:tsokinawa@acs.u-ryukyu.ac.jp(保存公開係)