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アール・ブール師略年譜及び沖縄キリスト教史関係

*この略年譜は,伊佐眞一編著『アール・ブール 人と時代』, 石川政秀著『沖縄キリスト教史』及び海老沢有道著 『最初の邦訳聖書:ギュツラフとベッテルハイム訳聖書』 等を参考にして編集作成しました。

1549(天文18)年
フランシスコ・ザビエル鹿児島上陸。
1587(天正15)年
豊臣秀吉,バテレン追放命令。
1609(慶長14)年
薩摩藩主島津家久琉球,首里城攻略。琉球は薩摩の支配下になる。
1611(慶長16)年
大島諸島琉球より薩摩に分轄される。
1630(寛永7)年
八重山の宮良親雲上石垣永将,キリシタン宗信者のため殉教。
1636(寛永13)年
島津氏琉球にキリスト教禁止令発布,キリスト教宗門改めを毎年行う。
1816(文化13)年
英艦ライフ号琉球に40日間滞在,バジル・ホール艦長住民と接触する。
1827(文政10)年
大飢饉となり,王府は粥を炊いて人民を救済する。
1832(天保3)年
ギュツラフ師が琉球に来島, 鎖国禁教下の日本の再度のキリスト教宣教師渡来の先駆をなす。 後のベッテルハイムに影響を及ぼす。
1844(弘化元)年
カトリックのフォルカ-ド宣教師来琉する。
1846(弘化3)年
ベッテルハイム宣教師来島,八年間滞在,医学書・福音書等琉球語訳出す。
1853(嘉永6)年
ペリー艦隊琉球に来航,首里城訪問,沖縄本島探索する。
1854(嘉永7)年
琉米修好条約調印。
1876(明治9)年
Earl R. Bull,オハイオ州モンゴメリ郡のビーバータウンで生まれる (9月26日)。のち母が長年住んでいたデイトンで成長する。
1879(明治12)年
廃藩置県令下り,沖縄県となる。
この年,コレラ流行し,患者11,200人,死者6,400余人。
1887(明治20)年
ジョン C. ディビソン,キリスト教メソジスト派の伝道を沖縄で開始。
1889(明治22)年
ブール,この頃デイトンで YMCA 活動を行う。
1891(明治24)年
ブール,デイトンの Computing Scales Company で就職。
バプテスト 原三千之助牧師,神戸より沖縄伝道へ赴任。
I.H. コレル, 沖縄メソジスト派への改宗者に洗礼をほどこす。
1892(明治25)年
メソジスト派の長野忠恕,布教活動を始める。
バプテストの ロバート A. タムソン 及ぶ聖公会の Edward Bickersteth 来沖。
1893(明治26)年
シュワルツ,来日して東京の銀座教会へ赴任。
1899(明治32)年
首里区字当蔵の伊江男爵邸にて, 長野忠恕とデーヴィソンによる基督教演説会。
初のハワイ移民団沖縄より出発。
1900(明治33)年
ブール,この頃ボストンのThe Baptist Seamen's Bathel で勤務。
メソジストの村井競,長野忠恕の後任として沖縄へ赴任。
シュワルツ,来沖。
1902(明治35)年
聖公会のローランズ初来沖。
1904(明治36)年
マニラ,メキシコへ移民等この頃より急増する。
1905(明治38)年
バプテストの原口精一,沖縄で布教をはじめる。
1906(明治39)年
シュワルツ,南九州地区責任者に任命され,沖縄へ赴任。
1907(明治40)年
本多庸一来沖し,各地で講演,伊波普猷らに影響を与える。
1908(明治41)年
この年,メソジスト教会が中心になって,禁酒の啓蒙活動が盛んになる。
1909(明治42)年
日本メソジスト那覇教会にて,伊波普猷「沖縄民族の基督教化」の題で講話。
1911(明治44)年
ブール,1854年以後のベッテルハイム情報を新聞掲載で求める。
ブールとティルトン(後のブール夫人), 海外伝道局でインド派遣に選出される。
ブール,ニューヨークでの海外伝道局会議にて, ブールとティルトンの派遣先が住宅事情で沖縄へ変更される。
ブール,ボストン大学神学部を卒業。
ブールとティルトンの結婚式がプレスビテリアンの教会で行なわれる。
ブール,沖縄へ赴任し,日本メソジスト那覇教会にて 「自我戦」と題する英語説教を行う。
1912(明治45)年
ブール,沖縄中学で英語を指導(1913年まで)。 伊波普猷,那覇日本メソジスト教会にて講演,ブール夫妻も同席。
1913(大正2)年
ブール,真和志尋常小学校へ寄付金を行う。
日本基督教会の伊江朝貞,沖縄で活動活動を開始。
ブール夫妻,鹿児島へ移住,以後大正年間を通じて1926 (大正15)に日本を離れるまで沖縄に渡り,メソジスト派監督教会を支援。
ブール夫人,長崎の女性宣教師西部大会で沖縄報告を行う。
1914(大正3)年
ブール,東京の青山学院に滞在,この頃福岡赴任を命ぜられる。 比嘉賀秀ら,この頃日本組合教会を設立。
1915(大正4)年
ブール夫妻,朝鮮旅行に出発,帰朝後,朝鮮紀行を発表。
ブール来沖し,首里メソジスト教会にて伝道説教。
この頃ブール夫妻,鹿児島へ移転。
1916(大正5)年
ブール,『琉球新報』に「龍に対する所感及び沖縄に対する希望」を掲載。
Daniel R. Mackenzie 基督教全国協同伝道のため来沖し,各地で講演。
ブール夫妻,日本メソジスト鹿児島教会で布教活動。
1918(大正7)年
ブール,津田梅子へ書簡を出す。ブール夫妻,一年間の休暇で帰国。
1919(大正8)年
ブール夫妻,オハイオ州コロンバスでのアメリカ・ メソジスト基督教百年祭で日本関係資料の展示を行う。
ブール夫人,フランクリン通り基督教会にて, 日本での布教活動の報告をし,あわせて活動支援を訴える。
ブール,日本へ贈る人形,ボールペンなどを募り, 日本の学生への資金援助をも訴える。
1920(大正9)年
京都でのメソジスト派監督督教会西日本大会で,ブール, 地方管区長(琉球)に選出される。
1921(大正10)年
ブール,泊の外国人墓地の荒廃ぶりに驚き, 修理のための活動をはじめ, アメリカ海軍省や長崎領事館に働きかけて1926年に整備が完了した。
1922(大正11)年
ブールと金森通倫,各地の教会で布教活動を行なう。
八重山,マラリア病で1,127人が被患する。
1923(大正12)年
ブール,このころよりロンドンとニューヨークの古書店より 沖縄関係欧文書籍を購入。
ブール,中国へ渡航し,反日運動を見聞。
1926(大正15)年
ブール,大阪毎日(英語版)に沖縄救済の記事を寄稿。
ブール,「沖縄朝日新聞」「琉球新報」などに 「ペルリ提督以前の文明指導者伯徳令」連載, このころベッテルハイムの日記を書き写す。
ブール,ベッテルハイム記念碑を建つ(亀井知事,志賀重昂ら参列)。 那覇市公会堂でベッテルハイム記念展覧会が開かれ, ブールの収集した資料を展示。
ブール夫妻帰国,オハイオ州クリーブに滞在(翌年3月まで)。
1929(昭和4)年
ブール,住居を売却した資金を沖縄の教会建設費用として贈る。
クリスチャンで社会運動家の賀川豊彦,沖縄へ渡る。
この頃世界経済恐慌おこる。
1936(昭和11)年
オハイオ州デイトンから贈られた資金をもとに那覇,首里, 与那原に教会を設立。 1918年にブールが中心になりオハイオ州の教会で集めた募金が建設資金となる。
1937(昭和12)年
ベッテルハイム渡琉90年祭,那覇で挙行。
ブール,ベッテルハイムの琉球語訳聖書(写本) を島袋源一郎氏を介して沖縄県立図書館へ贈る。
1940(昭和15)年
ブール,オハイオ州オタワ郡エルモへ移転し, 聖パウロ教会の牧師になる。
1945(昭和20)年
ブールの先輩,宣教師ヘンリー・シュワルツ, カリフォルニア州パロアルトの自宅で死去(83歳)。
1951(昭和26)年
サンフランシスコ対日平和条約調印,沖縄, 奄美日本より行政分離される。
1954(昭和29)年
メソジストのベル宣教師,沖縄土地闘争の渦中で,「Play fair with Okinawans!」を発表。
1958(昭和33)年        
ブール,著書「Okinawa or Ryukyu : 流蛇:the floating dragon」 を自費出版。
ブール,生涯を通じて蒐集した膨大な沖縄関係資料を, 琉球大学の八周年記念として琉球大学志喜屋記念図書館へ贈呈。
1961(昭和36)年
米国民政府などの協力でマイクロフィルムを含むブールの蔵書を, 琉球大学へ寄贈(延総冊数560余点)。
1972(昭和47)年
1969年の佐藤・ニクソン共同声明に基づき, 沖縄は日本に復帰して沖縄県となる。
1974(昭和49)年
ブール,オハイオ州レバノンで死去(97歳)。