The Man

資料収集の鬼:ブール師

照屋善彦

ブール師(the Rev. Earl Rankin Bull,1876〜1974)は, 米国のメソジスト監督教会から,1911年, 九州・沖縄地区へ派遣され延べ15年間日本で伝道をした宣教師である。 師は沖縄での本務であるキリスト教の布教のほかに, 中学校での英語を教え, また幕末に来琉した英宣教医ベッテルハイムの記念碑を建立 (大正15年)したりして,大正時代の沖縄で顕著な活動をした。 また師は戦後, 琉球大学附属図書館に「ブール文庫」を寄贈した人としても知られている。 当文庫が設置された1958年頃の琉球大学附属図書館には 蔵書数が著しく少なく, 大学の使命である教育と研究にも支障をきたす状態であった。 特に,洋書の蔵書に至っては寥々たるものであったので, ブール文庫が琉球大学に寄贈された意義は大きい。 筆者や同僚で沖縄の対外関係史を研究していた者にとって, 当文庫はまさに干天に慈雨の如く有り難い贈り物であった。

ブール師は,沖縄への派遣が決定した1911年以後, 終生異常なほどの情熱と執念をもって, 「沖縄」と沖縄における プロテスタント宣教の開拓者ベッテルハイム研究に打ち込んだ。 19世紀中葉,ベッテルハイムが派遣(1846 〜54)された沖縄こそ, 日本キリスト教史における最初のプロテスタント伝道が 開始された場所であったからであろう。 アヘン戦争(1840 〜42) 後のアジアにおける国際情勢の大変化をうけて, カトリック・プロテスタントの中国をはじめ東アジアでの伝道活動が活発になった。 幕末の激動する琉球で, ベッテルハイムが フランスのカトリック宣教師と伝道活動を展開した史的意義は大きい。

師は,ベッテルハイムの研究に着手するや, 精力的に関係資料の大部分を収集し, その研究の成果を英文や邦文で次々と雑誌や新聞紙上で発表した。 特にベッテルハイムの日記・書簡や,彼を派遣した琉球海軍伝道会 (Loo Choo Naval Mission,本部はロンドン在)の報告書等の マイクロフィルム・コピーを師が自費で取り寄せたことは, ベッテルハイム研究史上での最大の功績である。 永い歴史があり公共機関でもない宗教団体から外国人や部外者が, 個人の研究に必要な関係資料を入手することが 如何に至難の技であるかということを, 筆者自身イギリスやフランスで身をもって体験したからである。 恐らくブール師は,欲しい資料に対する鋭い臭覚と 持ち前の粘り強さを発揮して入手したに違いない。 このような彼の精力的な資料収集活動については, 伊佐眞一氏の好著『アール・ブール − 人と時代』 (1991年)で詳しく述べられている。

ベッテルハイム研究は,琉球が置かれた当時の複雑な国際情勢の下で, 基本資料も多彩である。 (1)ベッテルハイムの日記・書簡と琉球海軍伝道会の報告書等, (2)ベッテルハイムが滞在中に接触した欧米人関係の関連資料。 例えばイギリス政府関係(本国・香港政庁・英国東洋艦隊等), 米国のペリー提督の合衆国艦隊,フランスの宣教師や同国艦隊, 欧米の民間船,ロシアのプチャーチン提督の関係資料等である。 さらに, (3)伝道地である琉球の王府(評定所文書等)と薩摩藩や幕府の関連資料, (4)琉球王国の宗主国である清国に関連した資料などがある。 これらの多岐にわたる膨大な資料群の中で, ブール師は(1)と(2)の関係資料の大半を収集している。 その他に琉球海軍伝道会の創立者のクリフォードは, 1816年に沖縄島を訪れたバジル・ホール一行に随行したので, バジル・ホールやマクラウドの航海記も参考にする必要がある。 その他ホールの前後に多数沖縄に来航した英国船関係の資料や, 当時の琉球を中心にした東アジア関係の欧文資料も研究に必要だが, ブール師はこれらの関係資料を戦前・戦後とも精力的に収集している。

年々充実していく本附属図書館で, ブール文庫は依然として貴重な資料の宝庫である。     

(琉球大学人文学科教授)