The Man

ブール文庫展示資料紹介

1. 未刊著書原稿『ペルリ提督前の文明指導者 伯徳令傳(教界の偉人)』 1926

序文に東恩納寛惇,眞境名安興,伊波普猷の自筆がある。 この3名は沖縄学の御三家といわれており,ブールとの交友関係が偲ばれる。

ベッテルハイム来琉80周年を記念して刊行を計画したようだが, 果たせず未刊に終わった稿本である。 ブールはこれと同じ内容の文章を前に英文で発表しており, これはその原文を日本語に翻訳させたものである。

全部で7章からなり,

  • 第1章 開拓者としてのベッテルハイム,
  • 第2章 伝道団を先導した水夫他,
  • 第3章 彼の収穫,伝道の動機,
  • 第4章 医師としてのベッテルハイム,ペルリ艦隊の軍医,他
  • 第5章 猶太人としてのベッテルハイム,他
  • 第6章 平信徒としてのベッテルハイム,他
  • 第7章 翻譯者としてのベッテルハイム,他
があり, ベッテルハイムの宗教上の経歴と琉球での布教活動の苦難等が描かれている。

(分類:289)

2. ブール夫人沖縄滞在日記(Diary of Mrs. R. Bull in Okinawa) 1911(明治44)

1911年11月11日,ブランチ・ティルトン・ブールは 夫のアール・R・ブール牧師とともにに米国メソジスト教会から 協力宣教師として沖縄へ派遣された。 沖縄へはヘンリ・B・シュワルツ博士夫妻に次ぐものであった。 ブランチの日記は 明治末期から大正初期の時代の一人のアメリカ女性の記録として沖縄滞在中, 日本語の習得の苦労や教会の人々の様子, また当時の沖縄の風土,慣習等に対する驚きと興味, 首里城,那覇や首里の儀礼等が描かれている。 日記は二冊のノートに書かれ, 第一冊は1911年11月11日から1912年6年15日の間, 第二冊は1912年11月11日から1913年6月11日の沖縄を去るまでの記録である。

(“びぶりお” vol.27 no.1,1994 キャロリン・B・フランシス執筆より抜刷)

(分類:950)


3. 津田梅子からの書簡

津田梅子(1864-1929)は女流教育家,現津田塾大学の創立者。 わが国最初の女子留学生として多感な青春時代を外国で過ごし, 又,女子高等教育機関の創立者として明治,大正を生き抜いた。

父は外国奉行方勤務にして, 農業界のお立て者と言われた津田仙(1837-1908)の次女として生まれた。 明治初年,明治政府は今まで放置していた女子教育に関心を持たざるを得ず, 開拓使長官黒田清隆の建議に従い,女子留学生の派遣を見るにいたった。 1871(明治4)年12月,7才の時, 明治政府の欧米諸国との不平等条約改正を目指す 岩倉具視を全権大使とする使節団と共に渡米, 当時日本公使館付書記官をしていた Charles Lanman に引き取られ以後11年間夫妻のもとで心からなる慈しみを受けた。 その間1873年の夏,8才の時キリスト教の洗礼をうけた。 アメリカにおいて自由の空気を多分に吸い, 婦人運動にも触れた彼女は故国の現実に期待を裏切られ,1885(明治18)年, 創立したばかりの華族女学校に伊藤博文の推薦で奉職したものの, 数年後,Bryn Maywr Collegeへ再留学し,女子の高等教育の使命を認識した。 1900年(明治33),私立の女子英学塾を麹町に開校した。 けだし,女子に専門の教育を與へる最初の学校であり, 生徒の個性に随った,個々の特質に当てはまる教育を意図した。 1907(明治40)より1年に亘って休養の目的で欧米漫遊, 健康を完全に取り戻すことはできなかったが奮闘を続けた。 1917年(大正6)5月遂に聖路加病院に入院,同年11月退院, 塾長を辞任,以後晩年の10年間御殿山で余生をおくった。 ブールへの手紙は仕事を生き甲斐にした彼女の苦悶が窺える。

(「日本人名大事典」及び伊佐眞一執筆“びぶりお”14巻1号より抜粋)

4.ガラス板写真(琉球関係)

齣数にして80齣であるが,その内容は古文化財的なものに首里城正殿及び龍柱, 守礼之門,歓会門,園比屋武御嶽,崇元寺,中城城跡など宗教的な祭祀慣行に, 当時の生活感情がにじみ出た結婚式,お嶽信仰,入墨,供物,墓所, 祭礼の行列などがある。

また布教当時の那覇,首里,読谷山教会や,教会の幼稚園, 日曜学校などの面影や那覇近郊の人々が 「ウランダヤー」と通称していた安里の教会,その他,那覇の街の路地, Saddle Pony(鞍をかけた馬),人力車,駕篭屋,闘牛風景,市場風景, 中流階級の家族など,のんびりした平和な時代の面影がしのばれ, 実に貴重な記録写真である。

このスライドが戦前の沖縄の生活の研究資料的な価値を高めることを願う。 スライドの解説書に 「Lecture on the Loo Choo islands, by Earl R. Bull」がある。 スライドは,別に日本,イタリア,フランス, アメリカなどの名所旧跡について22齣数に及んでいることを附記しておく。

(“びぶりお”Vol.1 No.2 1967.9.30を参考)

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5. Okinawa or Ryukyu :流   : the floating dragon by Earl Rankin Bull, 1958

ブールのこの著書は琉球の文字の由来,琉球諸島の 1.地誌,2.資源,3.歴史,4.住民,5.慣習,6.文化,7.工芸,8.宗教, 9.王朝の組織図,10. 政府 11.公衆衛生,12.教育史 13.通信,輸送 14.娯楽,スポ-ツ,名所旧跡 15.産業 16.その他,付録等多岐にわたり, 英文で書いた総合琉球文化史で外国人にとって琉球を理解するのに便利な ガイドブックである。 イラストには王朝時代の夫人の階級別のかんざしや末尾にハジチ (婦人の手の甲の入墨),首里城正殿及び城内図,封舟(御冠船), 国王の衣装,琉球の貨幣,ベッテルハイムの肖像及び墓碑, バプテスト教会等の写真がある。


6. ノロの辞令者(2点)写し

琉球王国の神女組織は第二尚氏王統の尚真王時代に確立をみ, 中央,地方を問わず,神女はすべて王府の辞令を以って任命され, 役地,役俸を給せられるおえか人=官人となった (宮城栄昌:東恩納寛惇全集第3巻解説より)。

  1. 今帰仁間切中城ノロ宛辞令書(写し) (なけじんまぎりなかぐすくのろあ じれいしょ) :萬暦33(1605)年9月18日付け 英訳あり
    しょりのおみ事みやきせんまきりの中くすくのろは 一人もとののろのくわまうしにたまわり申しよりまうしか方はまいる (訳:首里の王の御詔,今帰仁間切の中城ノロは元のノロの子眞牛に賜ふ)
    (中城とは現今仲尾次の故名なり)(沖縄県國頭郡志より)

  2. 羽地間切屋嘉のろ宛辞令書(写し) はねじまぎりやかのろあてじれいしょ):天啓5年(1625年)4月20日付
    しょりのおみ事はねしまきりの屋かののろはもとののろのうまが 一人おとうにたまわり申し候 (訳:首里の王の御詔,羽地間切屋嘉のろは元のノロの孫娘のおとうに賜ふ)

7. バジル・ホール著「ジャワ,中国,大琉球航海記」: 付録「セント・ヘレナ島に幽閉中のナポレオンとの会見記」 第3版 1840

英文書名: Narrative of a Voyage to Java, China and the Great Loo-Choo Island... and of an Interview with Napoleon Buonaparte, at St. Helena by Captain Basil Hall...

  1. 1816(文化13)年9月16日, 琉球を訪問した2隻の英艦ライフ号(艦長はバジル・ホール中佐)は 約40日泊港に滞留し,10月27日出帆した。 ライフ号は広東, マニラ等を経て幽閉中のナポレオンのいるセント・ヘレナに到着した。 バジル・ホールとナポレオンとの琉球に関する問答は 第1版(1818:初版ロンドン版,フィラデルフィア版), 第2版(1820)には収められていない。 1826年に出版された第3版に初めて登場する。 会見記の中でナポレオンは 東洋の事情について常に特別な関心をもっているように見えたが, 琉球の名は知らなっかたようである。 琉球人に関する質問で琉球に武器がないと言うホールの報告に 大変驚いたこと(注1),貨幣を持たないこと, 中国や琉球の宗教に関心を寄せていたことが述べられている。
    (仲原善忠:季刊南と北 第24号より抜粋)

  2. 尚,ブール文庫ではないが当館所蔵の第一版ロンドン版には 本文以外に地図2枚,巻末付録,クリフォードの琉球語彙, 王国時代の王族,士族や民具等の美しいイラストが数点挿入されており, 当時の社会風俗が垣間見ることができ, フィラデルフィア版はロンドン版の本文及び地図2枚のみでサイズも違う 
    (分類:290.99/HA) 

注.1:慶長の役(1609)で琉球は薩摩支配下になり, 日本本土より武器の輸入ができなかったことによる (嘉手納宗徳著「琉球史の再考察」より p.243)。

なお,後に「琉球語文典及び語彙」, 「琉球−その島と人々」(1895)を著したバジル・ホール・チェンバレン (言語学者,1850−1935)はこのバジル・ホールの孫である。


8. 英国聖公会宣教師 B.J. ベッテルハイム医師の日記

この日記はブール文庫ではないが, ベッテルハイムの研究家としてつとに知られているブールとも 関係が深いので展示資料として取り上げた。 この日記はベッテルハイムの曽孫 R.J. ハンプトン夫人(米合衆国カンサス州)より 夫人と親交のあった照屋善彦助教授(当時)を通じて 琉球大学にベッテルハイムの日記3冊と書簡控帳1冊が寄贈された。 1846年より1854年まで那覇に滞在した ベッテルハイムはイギリスの琉球海軍伝道会より派遣された宣教師であった。 彼はハンガリーで1811年に生まれたユダヤ系の人で,イタリアで医学を修め, トルコで英宣教師の手によってキリス教に改宗し,後年イギリスに帰化し, 英国夫人と結婚した。 沖縄に派遣された当時の琉球王国は薩摩の支配下で鎖国令で 欧米人との接触も禁止されていた。 八年間の滞在中に布教,医療ならびに聖書の琉球方言への翻訳に専念し, 1854年沖縄を去った。

この日記は異邦人としての苦闘の記録であるばかりでなく, 当時の封建制度下の島民の社会生活や国際情勢の変化 (ペリー提督の来島など)を知る貴重な情報を提供してくれる。

また,書簡控帳の内容は,1852年5月より1853年11月にかけての37通で, 主にベッテルハイムと外部(中国在住の友人やロンドンの関係者) との文通で,これからもベッテルハイムをめぐる沖縄の事情を 知ることができる。

日記と書簡控帳は,いずれも薄い紙に書かれているが, 八年間の不自由な沖縄生活を反映してぎっしりと書き込まれている。 百年以上も経っているため,インキも薄れて判読しにくい箇所が多い。

(照屋善彦)

9.Neglected Loo Choo by Earl R. Bull (World dominion vol.3.no.1, 1924年掲載)

「顧みられない琉球」と題するブール師の論文。

ペリーが日本の鎖国政策を打破したこと,日本と琉球に開国を迫ったこと, リビングストンと同時代の先駆的宣教師で英国人と認められる 最初のプロテスタントの遠征, 中国及び東洋へ派遣された宣教医の呼び掛けで心を動かした ユダヤ系の若き医師ベッテルハイムが1846年那覇に上陸, 以後8年間島の布教に従事した。住民は非友好的で, 猜疑心で見張っている役人のため滞在中,忍耐と困難を味わった。 幕府がキリスト教に敵意を抱き住民は災難を招くことを恐れたからである。 ベッテルハイムは過度の緊張で健康を損ない,退去を余儀なくされた。 彼は聖書の翻訳を続けたが住民は自国語で書かれたものをもたなかった。 翻訳は多分日本に渡されただろう。 来島6年後,ベッテルハイムが琉球人へ福音の伝道を求めていた頃, ペリー艦隊が来島し, ペリーの通訳をしたベッテルハイムは彼に琉球が日本への鍵であり, かっては開かれた門であったがいまだ閉鎖的であることを印象づけた。

美しい肥沃な島は龍のしっぽを形どっているが暖かくて湿気のある気候は ヨーロッパ人にも日本人にも好まれない。 この島は台風に度々遭遇するため,周囲は珊瑚礁の岩盤に家を建てている。 村人は見窄らしい小屋に住み,この島の大部分の住民が極端に貧しく疲弊している。 日本固有の人々と違う人種としての琉球人は多分日本人と原住民との混血であろう。 住民の宗教思想は仏教か儒教の影響を少しうけている。 これらの宗教は多数に親しまれているが,大部分が先祖崇拝である。 1879(明治12)年琉球が日本に繰りこまれて以来, 産業及び教育に大きな変化がおきた。 知らない言語を話す外国人としてかつて日本人からみはなされてきたが 今や教育層から次第に日本語が広がった。 若い琉球の人々は日本に教育を求めた。 多数の学校が建てられ,物質面の状況も改善されたが, 大多数の琉球の人は驚くべき貧困と無知に追いやられている。 琉球は新生日本の所属となり,ベッテルハイムから40年, アメリカ北部バプテストの働きで2人の日本人の宣教師とトンプソン師が来島した。 廃藩置県後12年も経過しているのに住民の社会及び就業状況は まだ極端に貧困であった。物質文明に飲み込まれ,宣教師も精神的布教も困難だった。 それから10年変化が見られ住民が福音をきくようになった。 那覇首里に教会が組織され,バプテスト教会も次々と糸満,首里,那覇に設立された。 琉球でのキリスト教的精神が始まったばかりで, この地域の先駆的宣教師の仕事が神の導きとしてためされている。 精神的種子が結実する時期にきていて, 多数の外国の宣教師の到来を必要としており, 地元の教会の発展と拡大をしてほしい。 全体として神の福音は届いているが,琉球は世界の顧みられない地域として, 今なお残っていることを思いださせる。

(要約:展示委員会(豊平))

10. 『東支那海沿岸航海日誌−付シャム・朝鮮・琉球記』(1834)

Journal of three voyages along the Coast of China in 1831, 1832, & 1833 with notice of Siam, Correa, and the Loo−Choo Islands by Charles Gutzlaff.

中国語をよくするギュツラフ師は訪琉中,琉球語に対する観察をなし, 日誌に次の如き記述をのこしている。

「今日(1832年8月24日)彼らの言語を調べる機会を得たが, それはメドハーストの『英和・和英字典』により我々の比較し得る限り, 日本語との著しい類似を示すもののようにおもわれる。 その正字法もほぼ同一のものにして, 文字の発音もいくつかの例外を除けば極めて類似のものである。 したがって琉球の人たちはもともと日本本土よりの移住民を以って 形成されたとする蓋然性があろう。中国帝国の附庸としての現今は, 知識階級の間に北京官話が浸透する結果となり, 多くの者が北京に於いて教育を受けたと彼らは語っていた。」(p.291)

(山口栄鉄編著:「琉球 : 異邦典籍と史料」より)

After dinner we took a long walk among the hills and groves of this delightful island. We saw several women working very hard in the fields ; and the peasantry appear to be poorly clad and in poor condition ; yet, they were as polite as the most accomplished mandarins. Sweet potatoes occupied the greater part of the ground, and seem to constitute the principal food of the inhabitants.

食事の後,我々はこの素晴らしい島の丘辺そして木立へと長い散策の歩を進めた。 田畑で仕事に精出す農婦の幾人かを目にしたのであるが, 農民の見なりは極めて見すぼらしく,貧しい状態にあるようである。 それにもかかわらず,彼らの礼節溢れる態度たるや, かの磨き上げられた中国官吏のそれにも比すべきものの如くである。 農地には薩摩いもで占められ,島民の主食のように思われる。(p.295)

なお,ブール文庫にはこの他に 「Journal of two voyages along the Coast of China in 1831, & 1832...] があるが琉球に関する記載はまったく同一である。

ギュツラフは日本開教を志しつつ琉球に向い,1832年8月那覇に入港, 『神天聖書』などを頒布した。当時の琉球は薩摩藩の支配下にあったが, まさに鎖国禁教の日本に再びキリスト教宣教師が渡来するという先駆をなした。 ベッテルハイムもギュツラフの強い影響下にあるが, このようにギュツラフを中心として,直接間接に, 人格・識見に勝れた人々が日本開教に,そして聖書和訳に使命を覚え, 献身するに至ったことはギュツラフ訳が不十分であったにせよ 日本キリスト教史的には,その闕を補って余りある。

(海老沢有道著「最初の邦訳聖書 : ギュツラフとベッテルハイム訳聖書より引用)

11. 『琉球とその人々』1853

Lewchew and the Lewchewans, being a narrative of a Visit to Lewchew, or Loo-choo by George Smith (Bishop of Victoria) in October, 1850 London, 1853

ビクトリア僧正ジョージ・スミスが蒸気船レイナード号で香港を出港, ほぼ10日間を経て1850年10月3日那覇港に到着したのは, 1846年より琉球に在って宣教活動を続けるベッテルハイムの状況調査を 目的とするものであった。 ベッテルハイムと那覇の町を行く僧正の目に映るのは, 礼節溢れる態度で遠くから頭を下げるも, 近づくと筑佐事(警察)の目を気にする住民の姿である。 温厚で質朴そのものの琉球の住民をこのような態度に追いやる日本, そして琉球王府の外交政策を嘆き, その克服のためにも神の福音をと英米のクリスチャンに援助をもとめる 文意をしたためている。

It is strange that our imperfect acquaintance with oriental empires should still throw some degree of uncertainty on the whole relations subsisting between Lewchew, Japan, and China respectively. On the whole, however, it seems for the most probable opinion, that Lewchew was peopled by a colony from Japan, to which people their physiognomy, language, and customs, bear a close affinity; and thatto China they owe the far more important debt of their partial civilization and literature. (p.60)

東洋諸国に関し,我々の知識が不完全なものとは言え,琉球, 日本そして中国がそれぞれ互いに有する関係の本質について いくつかの疑問が残るのは奇妙なこととせねばならない。 しかし,全体として次の見解が最も妥当と思われる。 すなわち,琉球は日本本土よりやって来た人々の植民によって形成され, 身体的特徴,言語,習慣に本土の者との深い同系関係が見られる。 さらに中国よりは自国の文明そして文学が部分的に 計り知れない程の恩恵を蒙っている。

(山口栄鉄編著:「琉球 : 異邦典籍と史料」より)

1832年来島のギュツラフ師も1850年のジョージ・スミスも, 琉球と日本との関係において言語的にも身体的特徴にも両者の類似性を指摘している。 その他この著書には琉球の産業にも触れており, 甘蔗が雇用につながっていること,砂糖が酒ともに貿易の品であり, タバコが住民に嗜好されておること,綿,塩が生産され, 豚や山羊や牛が飼わていることが記載されている(p.78)。 巻頭の表紙にベッテルハイムの住居のイラストがある。


12. 『ペリー提督日本遠征記』1856

Hawks, Francis L. 「Narrative of the Expedition of an Amnerican Squadron to the China Seas and Japan, Performded in the Year 1852,1853, 1854, under the Command of Commodore M.C. Pery, United States Navy, 3 vols, Washington, 1856

『ペリー提督日本遠征記』なしに日琉米修交史を語ることはできない。 第15章で,江戸湾への第1回帰港を果たし琉球へ戻った提督は, ただちに琉球側へ接見の意を伝え, アダムス副官を通じて総理官宛の文書1件を手交することが見える。 ペリーは5度も那覇に帰港し,日本との条約交渉の基地として利用する。 その間,沖縄の海陸の調査,首里城を強硬訪問し,遂に,1954年3月, 日米和親条約締結に成功し,同年7月11日,琉米和親条約を結ぶ。 日米和親条約締結締結後の琉米関係の円滑化を目的とし, ペリーと摂政尚宏勲(与那城朝紀)が英漢両文の7ヵ条からなり, 内容は訪琉米人の厚遇・必要物資や薪木の供給,水先案内等である。


13. バプテスト年報

Baptest Annual Report(Japanese Mission)

キリスト教の宣教師として,日本本土のみならず "琉球" の人々, 特に日曜学校における子供たちへの布教活動に尽力したブール氏の 一面を示す資料である。 さらに,過去において琉球(沖縄)にかかわった宣教師らのいろいろな 活動面にも深い関心を寄せるなど, ブール氏は彼らの残した文書類から当時のより詳しい “琉球”の実態などを把握しようとしたのだろうか。 広く,沖縄の教育史という観点からも貴重な資料の一つと言える。

(阿波根 直誠:学校教育)

14. International Cemetry Tomari, Loo Choo : correspondence which concerned the above

(泊外人墓地関係書簡)

泊外人墓地は那覇市泊港北岸に近く,聖現寺の東南の台瀬にあり, 一角にペリー上陸地の碑が立っている。ここに葬られているのは22人の外国人 (清国6,米国11,英国2,仏国1,スウェーデン1,不明1) で通称(ウランダ墓),または(外人墓地)とも呼ばれている。 そのうち最も古いのは清国人の墓で,墓碑には康煕57年(1718), 乾隆15年(1750),乾隆50(1785)とある。 仏国のカトリック宣教師アドネ神父もここに葬られている。 幕末の琉米和親条約等には墓地の保護がうたわれている。

(沖縄大百科事典:島尻勝太郎より)

ブールは1921(大正10)年にこの外人墓地の荒廃ぶりに驚き, 修理のための活動をはじめ,アメリカ海軍省や長崎領事館その他多数の 機関に精力的に働きかけ1926(大正15)年に整備が完了した。 現在も美観よく保存されているのはこの時の業績による。 ここに展示している資料は当時のブールの修復の為の活動状況を知る 貴重な書簡類である。


15. 『ピーター・パーカー師宛ベッテルハイム書簡』(1852)

Bettelheim, Bernard J. : letter from B.J. Bettelheim, M.D. Missionary to Lew Chew Islands, addressed to Rev. Peter Parker, M.D. Canton, China, 1852

ブール文庫の書簡はカリフォルニア州の H.C. プラット夫人所有の自筆書簡をブール氏が複写したものである。

*ベッテルハイム師が那覇にて記す長文の書簡で, 前掲書の続巻ともすべきものである。1849年より1851年に至る, ともすれば苛酷な,そしてベッテルハイム師自身の言葉を借りれば, 「戦闘」の滞琉伝道記録である。 異邦人にして,しかも基督教徒の教えを住民に説くはこの国の慣例・掟に 逆らうものとする琉球王府側の主張と, 絶対唯一の神教による福音は地上の何人と言えども否定し得ぬとする ベッテルハイム自身の立場との相剋を冒頭にて記し, 後者を無論是なりとする前提で進めている。 琉球辞書の作業経過,『路加伝福音書』『使徒行伝』『ロマ書』 その他の祈祷文の琉球語翻訳経過,施薬治療の困難, 琉球の筑佐事がベッテルハイムに暴力を振るう等の仔細を説く。 本書巻頭にて序文を記すピーター・パーカー師は 「ベッテルハイム師の活動状況ならびに心情を世の基督教徒に 知らしめるべく,本書簡を公にするは欣快とするも, なお,そうすることにより以下の文面に記されることどもを 必ずしも余がすべてを容認し, 敬意を表するものと解してはならぬことを強く読者諸君に望みたい」との 文意をしたためている。

(*印以下の文,山口栄鉄編著「琉球:異邦典籍と史料」より抜粋)

16. ブール師の「百按司墓(ももジャナばか)」の研究について

今帰仁村字運天の運天港に面する丘陵の中腹崖下に石墻を廻らし, その中に白骨が沢山あるが, これを「ももじゃな」とよび百按司墓に作ってある。 「ぢゃな」は「ちゃら」とも呼んで,按司と同義, 「もろもろのあんじをももちゃらと称する事は「おもろ」に用例が多い。 「ももぢやな」は「ももちゃら」の轉である。 ももぢゃなは沢山の按司のことである。 この墓は慶長の役(1609年,薩摩軍3千余人琉球を攻略)の時の 彼我戦没者の遺骨と云われるが球陽の伝える所によると 尚徳王の遺臣等を葬ったものとされ,「巴字金紋」銘がはいっていた。 一個新しいものに「弘治13年9月某日」と記されていた。

古に屋形造の木棺に一族納骨する習俗があったものと思われる。 後世陶製の厨子丸型角型いづれも屋形造の様式になっているのも 考え合はされる事である。 弘治13年と云えば尚眞王時代(1477〜1526年)で, 尚徳一族の没後17年を経たばかりであるから, 球陽に謂う所の尚徳遺臣説も多少根拠があるかもしれない。

(東恩納寛惇編著「南島風土記] p.393)

表紙に英文名で Momojana Studies by Earl Rankin Bull (ブールの「百按司墓」の研究) はブールが当時親交のあった東恩納寛惇の手書き原稿により, 文中に以下の1と2について概説沖縄史と記載されているもので, 内容は,

  1. 百按司墓について
  2. 此の墓にある三つ巴の紋章について
  3. 運天の近々にある大井川に誰が埋葬されているか,
  4. 謝名御墓
  5. 池城御墓
  6. 大北墓
等があり,他に三つ巴の写真等が同封されている。 「南島風土記」の基礎原稿の一つに思われる。 ブール文庫にこの資料があるのは両者の緊密な関係もさることながら ブールが沖縄関係の研究にも相当な関心を寄せていたことが窺える。


17. 竜

鳳凰・麒麟などとともに中国で特に発達した空想上の超動物。 角と鋭いつめをもつ巨大なへびの形をし,水と天に深い関りをもつ。 風・雨・雷など広く自然現象の原因と考えられ, 社会的にしばしば君主の力の象徴とされた。 古くは殷代末期の甲骨文や金文にも見え,美術的装飾や伝説の材料, 星座の名とされるなど,そのもつ霊力に対する中国人の信仰の深さを物語る。 起源について,へび・ワニへの崇拝, 竜巻・稲光の動物化,雨神・祖先神などの説があるが,決定的でない。

(旺文社百科事典 p.194)

ブールは「龍に関する所感及び沖縄に対する希望」という文章を, 琉球新報(大正5年1月31日,2月1日)に書いている。 その中で,自らが龍について研究したことを表明している。 この絵図は戦後1946年発行の日付があるが,ブールの龍についての興味から, 収集してきた資料の一端を示すものであろう。