The Man

アール・ブールと伊波普猷

伊佐眞一

伊波普猷は,アール・R・プール宛て1926年1月30日付の手紙で, その末尾を次の言葉で閉じている。

「琉球は昨今非常な窮境に陥って国家の手で救済されなければ ならないやうになってゐますが何だかもう助からないやうな気がします。 この不幸なる民族の為に尚一層御奮闘下さることをお願ひします。」

この書翰は,その年,大正15年5月に, プールが中心になって準備をすすめていた ベッテルハイム渡琉80周年記念事業にちなむ2つのモニュメント, つまり石材記念碑の建立と一対をなす, ブールのベッテルハイム伝への序文を求められたことに対する返信であった。 「一月十一日附の御手紙は,方々まわりまわって, 今朝やっと手許に届きました」というのは,たぶんにブールが, 前年の伊波の上京を知らないで, 沖縄の住所に向けて出したためであろう。 かくて30日の朝になってやっと手紙を読んだ伊波は, その日のうちにペンをとったのであるが,この最後の一節には, 当時の沖縄経済の疲弊状態と, かくなるまでに至った真因についての伊波の認識が 端的にあらわれていると同時に, ブールを媒介にしたキリスト教とのかかわり, さらには沖縄「救済」についての思考のパターンが, くっきりと浮き出ているように思える。

沖縄の経済が,すでに数年前から八方ふさがりのどんづまり状態にあることは, 誰の目にも明らかであった。大正12年,県経済はこの年を境にして移入超過に陥り, 銀行のいくつかが倒産していた。そして,一部とはいえ家庭の食卓に, ソテツまでもが加わるという有様は,やがて児童の身売りや女性の遊廓流入をへて, 生活の根拠を丸ごと海外に移すという移民の増加に見られるように, ひとびとの暮らしを極度の貧困が直撃していた。

伊波にとって,こうした経済状態から受ける閉塞感は, もはやどうにも手のほどこしようがないとする無力感に通じていた。 おそらく,かつて自らが民衆のなかで精力的に行なった歴史講演, そして,つい数年前の民族衛生講演をくぐり抜けてきただけに, そうした思いは,身にしみるほど痛切だったであろう。 ともかく現状は,個人の力ではいかんともなしがたい段階にきているのであって, この「窮境」を「救済」しうるのは, 今や「国家」をおいてほかにはありえないとの判断であった。

この認識が一時的なものでなかったことは, その前年の5月,又吉康和に宛てた書翰形式の一文, 「目覚めつつあるアイヌ種族」(『沖縄教育』第146号)のなかで, やはり沖縄について,「今やその経済生活も行詰って, 国家の手で救済されなければならない羽目に陥ってゐる」 と記しているのでもわかる。

そして,それから数年先の昭和3年9月から約半年にわたる アメリカ旅行の成果ともいうべき「布哇物語」 (『犯罪科学』別巻第2巻第8号,昭和6年7月)に, 「国家の後援なき布畦に於ける日本語学校が, 『一国旗一国語』の標語を振翳する アメリカナイゼイーションの前に無力であることは, 知者を俟たずして知るべきである。」 としるしたこと。さらには,明治政府の有無をいわせぬ腕力による琉球処分を, 琉球人にとっての奴隷解放とみなしたことと思いあわせるならば, たとえばアイヌや琉球人に見られる少数民族に起きる諸問題に対して, 絶大な権力を有する「国家の救済」こそが, 効果的でかつ最終的な解決策とする伊波の思考法は,ある種の一貫性をもっている。 なかんずく,自己が不得手とした政治と経済に向かいあうときに, そうした上からの他力依存的傾向は,よりいっそう明瞭になったように見える。

では,こうした経済・社会状態を招いた原因が何であるかとの問いに, 伊波はいかに返答するのであろうか。 具体的な政策のレヴェルの問題とは別に,文化的背景として, 彼は沖縄人自身の「個性を発揮させることが出来」なかったことにある, と考えていた。

先の又吉宛ての文章のなかで,「三百年間の奴隷的生活に馴致された彼等は, その為に甚しくその性情を傷けられてヒステリックとなり, アイヌと同しやうに,外に対しては疑深いと共に,内に対しては兎角反目嫉視して, 党争に日もこれ足らずたうとう共倒れの状態」となったというのがそれで, 結局,彼の歴史・衛生講演は,昭和5年に書いた 「序に代へて(南島人の精神分析)」(『南島史考』)のなかで言うように, 「悪民族性からの脱却」に成功しなかった,と言外の断定を下されている。 そこでも伊波は,「島津氏の奴隷から解放された南島人は, 今や兎に角生存の競争に疲れきって,死に瀕してゐる。 もう助からないやうな気もするが, 彼等はたヾ『決然起って,汝自らを救へ』とあっけない鼓舞ばかりされてゐる。 彼等はさうして起上るには余りに圧しつぶされてゐることを知らなければならぬ。 何とかして今の中に根本的救済策を講じて貰はなければ 取りかへしのつかない状態に陥ると思ふ」と述べて, 暗に外部からの強大な力による「救済」を語っていた。

してみると,伊波が大正の末年に,「不幸な民族の為に」, ブールへその「奮闘」を期待したのは何であったのか。 ブール本来の職業であるキリスト教布教による 沖縄人の覚醒を希望していたのだろうか。それに答えるまえに, ブールとはいったいいかなる人物であり, 伊波とどのような関係にあったのかについて, 簡略ながらも説明する必要があろう。

ブールは,西暦1876年,日本の年号でいうと, 明冶9年にアメリカ合衆国の中西部オハイオ州に生まれている。 フルネームを Earl Rankin Bull と言って, 少年時代をデイトンに過ごし,26歳のとき,はやくも Historical sketch of Dayton Methodism and Raper Methodist Episcopal Church, Dayton, Ohio. の著作を出している。 このことからして,彼の信仰は20代前半には,一身をささげるべきものとして, 確固たるものになっていたであろう。 その後,オハイオを出奔してボストン大学神学部に学ぶのであるが, その前後に,やがて伴侶となる ブランチ・ティルトンBlanche Tiltonと邂逅している。 そして,34歳で大学を卒業したあと, 新妻を伴ってただちに海外布教へと旅立つことになる。 ところが,彼の赴任先は当初インドであったにもかかわらず, 新婚夫婦の住宅が確保できないという理由から, 急遽同じアジアの沖縄に変更されることとなった。

こうしてブールは,1911年11月,まったくの偶然から沖縄の地を踏んだ。 これがブールと沖縄との60年余に及ぶかかわりの最初である。 居を安里の宣教師館(通称ウランダヤー)に定めたあとの彼らは, 先輩宣教師へンリー・シュワルツ Henry B. Schwartz や地元のキリスト者に導かれながら, 夫婦分担して各地の教会で旺盛な活動を始めるのであるが,沖縄に在住していた期間, ほとんどすべての説教や会話を英語で行なっている。 インドならともかく,沖縄ともなると,布教にとって何よりも必須な言語の修得が, 彼らのゆく手を阻んだようである。1912年の外国人女性宣教師・西日本会議で, ブール夫人が,克服すべき「不慣れな2つの言語」として, 共通日本語と琉球語について報告しているのは,まさにそれにほかならない。 そのことが原因のひとつとなってか,1913年6月,わずか1年半の生活を切りあげ, 東京へ向け沖縄をあとにした。

その後のブールは,東京,福岡をへて, 大正4年ごろ鹿児島へと生活の根拠を移している。 結果的には帰国までの約11年間を鹿児島で過ごすことになるわけだが, 布教活動においては南九州・琉球地区の責任者になったことから, 再度沖縄との接触が生じた。 年に何度か渡航して,奄美をふくむ南西諸島の島々をめぐる宣教は, ブールに琉球への関心をいやがうえにもかきたて, 決定的な印象を与える機会となった。

後年,ブールが沖縄研究の泰斗となる伊波や真境名安興,東恩納寛惇をはじめ, 島袋源一郎,神田精輝らと親密な交わりをもつようになるのも,この大正年間である。 とりわけ伊波との関係でいえば, 伊波が明治40年ごろから大正10年ごろにかけての約15年ほど, いちじるしくキリスト教にとらわれたことが, ブールをより身ぢかな存在にした。伊波のキリスト教が, たんに自己の心的平安を求める個人の欲求でなかったことは, 彼が文字通り「伝道」の如き内実をもって, 歴史・衛生講演をなした事実に,何よりも雄弁に表現されている。 そして,それらの沖縄民衆の啓蒙運動が,「三百年間の奴隷的生活に馴致された」, いわゆる「悪民族性からの脱却」をめざしたものであったぶんだけ, 人間改革をつうじて社会変革を希求する伊波を, よりキリスト教に接近させたのであった。

その当時,伊波の行なった講演をみると, 「我は罪人なり」「悔改と天国」「基督の誘惑」「キリスト教的生涯」 「沖縄民族の基督教化」「基督教とは何ぞや」などがあって, シュワルツ,ブールとの交流がごく自然の流れだったろうことを思わせる。 と同時に,そのつきあいは, それぞれの視角から「沖縄」を掘り続ける琉・米の両人に対し, 宗教上のそれにのみ限定はしなかった。 おそらく,ブールの沖縄関係資科の収集が始まるのもこの前後からで, 世界各地の図書館や各種史料館, さらにはロンドンやニューヨークの古書店とのやりとりが, 一段と頻繁になっていくのである。 かくして,ブールのすさまじい資料収集がスタートするのであるが, のちに彼が Ryukyuana と呼ぶ「ブール文庫」を形成する資料群にあって, とりわけ執念を燃やしたのがベッテルハイムに関するコレクションであった。 ベッテルハイムの日記や書翰,琉球語訳聖書,各種写真のみならず, ベッテルハイムがペリー提督から拝領したコップをふくめ, 琉球海軍伝道会,その他関係資科まで,じつに貴重な収集がなされている。 これらはブールがアメリカへ帰国する直前の1926年5月, 那覇で開催されたベッテルハイム渡琉80周年記念祭において, 護国寺境内に建立された石造記念碑とともに, 広く一般に公開されている。彼の先駆的なベッテルハイム論文が The Japan Evangelist に発表されたのは, こうした成果に裏づけられてのことであり, 大正15年早々には,その集大成ともいうべき伝記の稿本 『ペルリ提督前の文明指導者伯徳令伝(教界の偉人)』が完成している。 伊波の先の手紙は,この著書の序文依頼に対する返答として書かれたのであった。

だが,ブールの沖縄歴史への対応は,文献上, あるいは過去のうえだけの作業ではなかった。 記念碑建設もそうであるが,大正10年から神戸や横浜のアメリカ協会, 長崎のアメリカ領事館, アメリカ海軍省との交渉を始める泊外国人墓地の修復も, 取り上げられる人物がブールと同じ宣教師, または外国人であるにもかかわらず,史跡保存をとおして, 現実の沖縄文化になにがしかの寄与をなした。

しかしながら,彼のそうした日米親善,文化交流活動は, 日本とアメリカの移民問題に象徴されるような, 大正初年以降における日米間の政治的緊張を考慮に入れないでは, とうていその実相を語れない。 ブールのこうした諸活動は, それ自体ブールの歴史的関心のおもむく事象追求行為ではあったが, 当時の官民を間わず日米の間に湧出する相互不信の緩和に, それらを役立てようという意図が,その背景にひそんでいた。

その意味では,ブールの歴史意識は, 過去の掘り起こしに向かうと同時に, きわめて現在性のつよい歴史感覚に支えられていた。 そして,その「現在性」が尖鋭に表われているのが, 1958年の「ブール文庫」寄贈に託した真の意図であろう。 つまり,コミュニズムから沖縄を防衛する目的のもと, 沖縄民衆に対する教育効果として, その資料提供が考えられている事実である。 同年9月21日,地元オハイオの新聞 Columbus Dispatch は 伝えている。 「ブール氏は,共産主義と闘うに際して, これらの資料が爆弾以上の力を発揮する,と信じている」と。 かつて自分が若かりし頃,情熱をかけた思い出の地が共産主義に犯されるなどとは, ブールにとって想像するも身の毛がよだつことであった。 これは,あまりにも独善的な沖縄「救済」策というほかないが, 彼には大正15年,別種の沖縄救済行動の経験があった。

当時の沖縄の経済状況についてはすでに述べた通りだが, このとき,ブールの関心をひく一篇の紀行文が, 1月上旬の The Osaka Mainichi に連載された。 同紙経済部長・松岡正男の Ryukyu island as they are. と題するルポルタージュがそれであるが,この文章に触発されたブールは, さっそく15日付同紙に Ryukyu as I know. の小文を投稿。 現今沖縄の状態を説明したあと,こうなるまでに至った最終責任が, 当の沖縄自身にないことを力説したのであった。 そして,以後2月にかけ,ブールと大阪毎日新間社(和・洋両紙)は, 二人三脚のようにして積極的な沖紐救済論議を担っていくことになる。

これらの記事をすべて,東京在住の伊波が目にしたかどうかはわからない。 しかし,少なくとも松岡の英文記事の初出邦文である, 前年12月に『大阪毎日新聞』に載った「赤裸々に視た琉球の現状」, もしくはそれと同文で『東京日日新聞』掲載の 「あわれ琉球」は読んでいたのではないか。 そしてブールの英文も承知していた可能性がある。読んでいたのであれば, その2週間後の1月30日,伊波がブールに,「不幸なる民族の為に」, その「奮闘」を期待した書翰執筆の意味も理解しやすくなる。 ということは,伊波はブールに, 沖縄民衆の精神的覚醒や宗教上の回心を依頼したのではなく, 政府の手による沖縄の政治・経済構造の大改革を念頭におきつつ, その介添役を希望していたことになろう。

大正末年になると, 伊波はかつてあれほど執心したキリスト教から徐々に撤退を始めており, 社会主義への共感とともに,唯物史観にちかい立場へと移動していた。 しかし,彼は過去に行なった啓蒙運動を決して無駄とは考えていなかった。 アイヌの青年・違星滝次郎に, 「君が今やるべき目下の急務は, 同胞の間に這入り込んで,通俗講演をやること」 だと助言をしたのは,その証しである。 つまり沖縄においても,あの当時のあの段階ではあの方法が「急務」なのであって, 大正末年という現時点での「目下の急務」は, 国家による荒療治というのが,伊波の現状認識であった。

では,伊波が頼みとした「国家」は,沖縄を「救済」しただろうか。 沖縄の疲弊からの脱出は, まもなく台頭する日本軍国主義のアジア侵略によって, きわめて悲惨な代償を払いながら, その真の解決を先送りにしていった歴史だったのである。

(琉球大学理学部)