台湾大学より真境名安興編『琉歌大観』とどく


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       台湾大学より真境名安興編『琉歌大観』とどく

                                  池宮 正治
 
  この夏いわゆる幻の「琉歌大観」のマイクロフィルムが台湾大学研究図書館より琉球大学
 附属図書館へ届いた。私にとっては待望の琉球文学資料である。
  この「琉歌大観」の存在が分かったのは、一九八六年の初夏静岡女子短大の須田悦生先生
 の「台湾大学研究図書館蔵日本古典籍目録」を見て以来のことである。さっそく須田教授に
 連絡を取る一方、新聞にも「幻の琉歌集ー笑古本『琉歌大観』」(沖縄タイムス八六年六月
 五日)の一文を発表して注意を喚起するとともに、琉球大学図書館にも入手方の協力を依頼
 した。あれから丁度十年になる。私自身は六年前の一九九〇年十一月、台湾の台北市で開催
 された第三回琉球中国歴史関係国際学術会議に出席して、台湾大学研究図書館で他の琉中関
 係資料とともにこの「琉歌大観」五冊を見る機会を得ている。初めて実物を手に取って見た
 あの時の感激は、今でも鮮明に蘇る。この十年歴代の学長、事務局長、図書館長、同事務部
 長、司書、同僚の教官など実に多くの人が、これを入手するために奔走し、今日の実現をみ
 たのであった。琉球文学を専攻しもっとも恩恵を受ける者として、関係各位の粘り強い努力
 に改めて敬意を表する次第である。またマイクロフィルムを提供してくれた台湾大学当局の
 好意にも厚く感謝申し上げる。
  さて真境名安興のこの「琉歌大観」の概要については、先の「幻の琉歌集」でも紹介した
 が、この度入手した「琉歌大観」がどのようなもので、またどのような経緯をたどって台湾
 大学にあるのかといったことについて、その後に分かったことなども加えて、若干述べてお
 きたいと思う。
  真境名安興つまり笑古が中心になって編纂された「琉歌大観」の概要そのものは、早いと
 ころでは明治四十二(一九〇九)年十二月七日付の沖縄毎日新聞の記事に「琉歌大観の出版」
 と題してその内容が紹介されていることで知られる。三十字詩(琉歌)が三千余首、おもろ
 の代表的なものが五十首、クワイニャ、テルクグチ、口説、劇詩(組踊)二編、宮古の歌全
 部、大島の歌の一部を内容とする「琉歌」をまとめて、来年度に出版の運びになっていると
 して、予約まで募っている。だがこれがどういう事情があったのか結局は出版されず、真境
 名氏は昭和八(一九三三)年十二月那覇で死去している。盟友の伊波普猷は、その追悼文の
 中で、同君の『琉歌大観』を東京で出版しようとの誘いもあったが、もう少し加筆するとこ
 ろがあるといって、真境名が断ったために出版が果たせなかった、と述べている。はたして
 伊波がいうように、真境名の都合だけで不発に終わったのかどうか。
  その後笑古稿本は遺族の手を離れて神奈川県鎌倉の古書店幽学荘舎に移り、そこから昭和
 十五年九月売りに出されている。東恩納寛惇のスクラップ・ブックにはこの時の目録の該箇
 所が貼付されている。これを見ると「琉歌大観稿本」とあり、やや詳しい説明が付いている。
  沖縄図書館長真境名安興(笑古)自筆ペン書き、本書は実に著者数十年刻苦蒐集並研究の
 結晶にて、護得久朝惟自筆序文に「古きは西暦一四〇〇年以前より新しきは大正の初期に至
 る約五百年間の有ゆる歌謡を収め、而も沖縄本島のみならず、宮古八重山の離島をも加へ、
 更に大島の分をも追加し、従って単に琉歌と言はんよりは寧ろ南島歌謡集の観あり」とある
 如く、著者の生涯中其博識に触れたる一切の歌謡を網羅せる事は、其紙数に由ても知らる。
 而も単に輯録に止らず、研究推敲を重ね、参考書目、作者姓名索引を付し、歌謡解釈を録し、
 編年的に分類列叙し、難句詞に就ては頭注解釈し、作者の略歴を記する等全く整備せり。初
 頭に護得久朝惟(書簡一通)、昇曙夢(七枚)、東恩納寛惇(二十七枚)、三氏の自筆序文
 を原稿の其儘に付しあり。出版を計画せしも不成に終りしものの如く、書肆としても手放す
 を惜しむ可き稿本なり。美半取交ぜ一一〇〇枚。六冊(中略)。二百円(句読点は筆者が施
 す)
  そしてこの説明の左に、幸地里之子の「たまの美簾やしらくもにみなちうちにまゐる無蔵
 や御月みなす」の歌と同人室の歌(二首)の箇所の写真が出ている。確かに真境名の筆跡の
 ように思われる。またここの所を台湾本と比較すると、第一巻の複写本の一〇三枚目に相当
 するところにある。幽学荘舎の写真では目録の文中にもあるように、頭注になっているのが、
 台湾本では地の文に入ってきている。これは台湾本を謄写した際の変化と思われ、台湾本に
 は頭注のあるものと、ここのように地に組み入れたものとが入り交じり、筆跡も複数認めら
 れる。
  たぶん「琉歌大観」が売りに出されて沖縄では相当に話題になったのであろう。翌昭和十
 六(一九四一)年四月二十六日付大阪毎日新聞の沖縄地方欄に「帰って来い、琉歌大観ー神
 奈川県で流浪の旅」と題する記事が出ている。これをみると台湾本は、笑古死後稿本が古書
 店に処分される以前、沖縄で書写されたことがわかる。
  沖縄一千年史の著者で知られる故真境名安興氏(二代目県立図書館長)が畢生の心血を注
 いで書き綴った琉歌大観稿本全六冊(和紙綴一千百枚)は、筆者の歿後台北帝大でその遺書
 のあることを聞きつけ、数名の筆耕を本県に派して借覧、謄写したほどの珍本だが、その後
 どうしたわけか、遺族の手を離れて行方不明となり、各方面から大へん惜しがられてゐたと
 ころ、最近廻りまわって神奈川県鎌倉郡深沢村の幽学荘舎の手に移り、目下同舎から売物に
 出てゐることがわかったので、喜んだのは多年その行方を探してゐた県立図書館で、早速照
 会してみると正にその本に相違なかったが、何分ちょっと手に出しかねるやうな値段なので、
 諸見里館長もさすがに困って取りあへず所有者に転売保留方を頼む一方、具眼の有志を説き
 まはってゐるが、果して同書が運よく郷土に戻って来るかどうか、大いに興味視されてゐる。
  琉歌大観は発祥以来の琉球歌を分類的に集大成して一々注釈を施した珍しい研究書で、こ
 んど売物に出たのはもちろん著者の自筆本である。
  この二つの記事でわかることは、真境名安興自筆稿本が売りに出され、これを察知した沖
 縄側も買い戻すべく動いたが、二百円という当時としては破格の高額だったのだろう、つい
 に不首尾に終わったようである。しかしながら仮に沖縄に買い戻されたにしても、今次大戦
 の戦火で消滅してしまう悲運に遭遇したかもしれない。
  これと関連があるかどうかわからないが、比嘉春潮の『蠹魚庵漫章』には、笑古の「その
 稿本は故あって久しく恩河朝蕃君の秘蔵するところであったが、沖縄戦で惜しくも湮滅に帰
 した」と記されいる。二百円の「琉歌大観」を買い戻して持っていたのか、それとも個人的
 に写し持っていたのか、恩河氏にかかるこの方面の進展はまったくない。
  上に紹介した十年前の拙稿の中でも述べたが、一九六四年沖縄タイムスから島袋盛敏氏が
 『琉歌大観』を出版したさい、その頃在京の一部の先輩がたから、笑古「琉歌大観」がもと
 になったのではないかといった噂話があがった。というのも、盛敏編の「琉歌大観」にはど
 ういう資料に依拠したといった編集上の経過に関する説明がまったくなく、しかも島袋氏は
 かつて県立図書館の司書を勤めていたこともあって、これまでの笑古「琉歌大観」の編集の
 経過も承知していたはずで、それでもなお敢えて「琉歌大観」という書名にしたのは、これ
 との関わりをかえって暗示したものと受け取られたものらしい。とはいうものの、笑古「琉
 歌大観」はいわゆる琉歌だけを集めたものではなく、組踊も先島の歌も入っている。しかし
 盛敏本は、琉歌といっても、「古今琉歌集」や「琉歌百控」を中心にして他のいくつかの琉
 歌を取り込んだものである。問題は他の一般的な歌集に見られず、笑古大観本に見られる琉
 歌が取り込まれていることである。これが何を意味しているのか、いわば疑念が晴れるのか
 どうかは、今後のこの琉歌大観を詳細に研究にすることによって明らかになるであろう。
  大阪毎日の記事でもう一つ大切なことは、おそらく真境名安興の死後間もなく、台北帝大
 から沖縄県に人を派遣して「琉歌大観」を書写させている事実である。この時の仕事が台北
 に今日残っているものと判断してよいだろう。台湾本もこれらの記事に示された内容と矛盾
 しない。違いは記事や売り立て目録が六冊となっているのに、台湾本が五冊だという点であ
 る。これも子細に見ると、目次と対応するのは四冊目の途中までで、この後半に所属する「
 宮古島のあやご」と第五冊の「八重山島の歌」は目次にない。しかも四冊目はもっとも分量
 が多く、ざっと二冊分はある。要するにかつては「宮古島のあやご」は、「八重山島の歌」
 と同様独立した巻だったことが推測できる。つまりかつて六冊本だった。それが「宮古島の
 あやご」が第四冊に紛れ込むことによって、台湾本は五冊本になったのである。
  台湾本の書誌的な内容について触れよう。今回到来したマイクロフィルムを紙焼にして本
 文だけで計算すると、第一冊が一一五枚、第二冊が一四二枚、第三冊が九八枚、第四冊(前
 半が八七枚、「宮古島のあやご」が一七四枚)二六一枚、第五冊が八三枚、合計六九九枚(
 本文のみ。一枚で二頁にあたる)である。ついでに言うと元の法量は、マイクロフィルムに
 付いている台湾大学図書館の記録だと縦二七・五臓横二〇臓平榲通槝燭任禄墜鷦掘四臓
 横一九・九臓法一面十三行、和装袋綴りである。
  これまでも出ているように、第一冊の序文は冒頭琉歌・和歌にも巧みだった当時の衆議院
 議員護得久朝惟が短い文章を、次いで奄美出身で当時ロシア文学の権威でもあった昇曙夢が
 概説し、東恩納寛惇が「琉球の歌謡並音楽について」、真境名安興が「短歌及長歌編纂の大
 意」を書いて専門にわたる概説をしている。いずれも大正六年の年号があり、この時の成立
 とみてよいだろう。序はこれだけで、伊波普猷がこれに関わった痕跡がないのは何とも解せ
 ない。伊波文庫には笑古筆写の資料がいくつも収蔵され、笑古と伊波の長く親しい関係から
 みて、かえって奇異である。今後の課題としたい。
  ついで「参考書目」とあり、五十九の参考資料が示されている。現存する馴染みの資料も
 あるが伝来していたらぜひ見てみたいものも少なくない。例えば個人歌集としては山内盛熹
 の「沖縄絃歌伝聞録」、恩河朝祐の琉歌私家集「玉山歌集」、「今帰仁朝敷詠草」、「浦添
 王子琉歌写」、明治三十年代から四十年代にかけての琉歌会資料である、糸満琉歌会の「歌
 道」、垣花琉歌会の「詠歌集」、三六琉歌会の「詠歌綴」、比謝橋友竹亭琉歌会の「詠草」、
 浦添朝長蔵の「琉歌集」「詠歌綴」、普天間家蔵「古琉歌集」、保栄茂家蔵「琉歌集」「現
 代人琉歌詠草綴」「二区五郡俚謡」「見聞令歌集」など、見たことも聞いたこともないもの
 ばかりである。「冠船之時組踊及踊」は冠船の踊り方の記録であろう。戌年か寅年か、それ
 とももっと古いものかこれも興味が持てる。「壬申座踊番組」は壬申年つまり明治二十五年
 (一八九二年)仲毛に出来た女だけの沖縄芝居のプログラムと思われる。短期間で消えた劇
 団である。これがあれば、沖縄初の女だけの劇団がどういうものを上演したか、当時の様子
 が伺えたはずだ。これらの資料を参考にしているということは、この琉歌大観がこれらの資
 料を反映しているということでもある。
  次いで「作者姓名索引」とあって五八〇人の琉歌作者が五十音順に並べられている。これ
 は単なる五十音引きの索引で、これはこれで便利だが、琉歌の部の至る所に注の形で個人の
 伝記に関する書き込みがあり、例えば漢那庸林の唐名が殷秉懿であること、職歴、生没年な
 ど、歌人の伝記が知られて興味深い。
  次に「歌詞解釈」。これは昭和九(一九三四)年雑誌『方言』四巻十号に「琉歌歌詞解釈」
 と題して発表されてよく知られたものである。死の翌年に発表された。
  これ以下は琉歌作品が紹介される。「尚徳時代より尚敬時代に至る/第一輯自寛正二年(
 一四六一)至宝暦元年(一七五一)二百九十年間」とあって琉歌があり、第一巻を終わって
 いる。以下順次第二輯第三輯とあって第七輯までつづき、最後の第八輯に大島の歌一七五首
 を収めている。この大島の歌は伊波文庫所蔵の「大島の歌」(筆写本)から摘出してあるよ
 うに思える。
  第三巻は、第九輯が口説、十がてるくくち、いるちややう、はやりうた、ウシデーク、十
 一が民謡童謡など、十二が長歌、節歌、十三が短歌(三十字)読人不知、
  第四巻、十四輯が狂歌(個人・読人不知)、十五がこゑにや・大城こゑにや、十六が組踊。
 伊波文庫には笑古筆写の「こゑな」集をはじめ幾つかのクェーナ集がある。組踊は伊波普猷
 編『琉球戯曲集』の底本となった戌の冠船(一八三七年)のテキストから「執心鐘入」と「
 銘苅子」の二番を収めている。十七がつらね・吉本の「恋の状」、十八が木遣り・京太郎な
 ど。「宮古島のあやご」は、先にも述べたように笑古が明治四十年現地で筆写したもので、
 伊波文庫にある「宮古八重山の歌」、「宮古島の歌」とも、配列の順番、分量とも一致して
 いて、宮古現地にこれの元になったテキストがあったはずである。
  第五冊(実は第六冊)が「八重山島の歌」である。これは伊波文庫所蔵の、先に紹介した
 笑古筆写の「宮古八重山の歌」の後半「八重山島歌節寄」も参考資料の一つにしたものと思
 われる。いわゆる三線にのせて歌う節歌である。「八重山島歌節寄」の後ろには喜舎場永恂
 から伊波普猷へ送られた報告や書簡が綴られている。これには赤馬節から無蔵念仏節まで八
 七編が収められているが、本琉歌大観の「八重山島の歌」は一一二編の節歌が採られている。
  ここでいう「琉歌」は、八八八六音四句体の琉歌(短歌)、これより句数を多くする長歌、
 上句が五五、七五、七七となる仲風(仲歌)といった狭い意味ではなく、奄美以南の琉球列
 島の歌謡の意である。それでも当時各地に多く残っていた祭祀歌謡はまったく取り扱われて
 いないし、十六輯の組踊と第四冊の宮古島のあやご、八重山島の歌をのぞけば、少しばかり
 概念を広めた「琉歌」といってよい詩歌・歌謡ばかりである。ただ組踊を「劇詩」と言って
 琉歌にいれたのは、当時としても斬新だったはずで、つまりこれは西欧では劇は要するに詩
 劇であり、古くから詩の分野として取り扱われてきたことを念頭においたものであろう。短
 詞形琉歌を「三十字詩」といった発想も、定型の叙情詩つまり「詩」として捉える「近代」
 の文学的な発想に基づいている。この命名者が笑古その人で、「琉歌大観」の編集をことあ
 げした明治四十二年に「三十字詩」とよぶ新作琉歌を発表しつづけ、また三十字詩の歌会も
 催している。その時真境名は柳月庵の雅号を使って、
     硝子窓もれる洋琴の音も 芭蕉の葉の雨に絶えていきゆさ
     絵師の刷毛あとか夏雲の切れか 久米渡からこがた粟国渡名喜 
  といった新しい琉歌を歌っている。当時大変な賑わいを示していた琉歌・和歌の歌会が、
 実は古臭い兼題や当座といった題詠の月並み歌会であっことを思えば、真境名の意気込みと、
 近代の詩を良く理解した先見性が見て取れる。こうした目を持った真境名の手によって編ま
 れたのが、笑古本「琉歌大観」であったのである。
  ただ「劇詩」や「三十字詩」という言い方に時代の清新さを感じるものの、明治四十二年
 を逆上る丁度六十年前、小橋川朝昇は「(琉球)大歌集」を編集した際、長短のいわゆる琉
 歌を中心に、口説・つらね、組踊、木遣り歌、クワイニヤ・やらし、念仏等の歌を七巻で構
 想していたことが分かっている。組踊を琉歌に加えたのは笑古の独走とはいえないし、先島
 や大島の歌を除けば、全体構想も相当によく似ている。これを参考にしたのか、それとも単
 なる暗合なのか。「琉歌大観」はいま現れたばかりであって、結論を急ぐ必要はあるまい。
  全体を見て、一つの疑問は、上の明治の新聞で「オモロと宮古のアーゴは伊波文学士が分
 担」するとあるのに、結局おもろは収められず、伊波の序文も得られなかった点である。師
 の田島利三郎の論文を二人共同でまとめた、『琉球文学研究』(大正十三年刊)の序で、笑
 古は「物外氏と余との共纂に係る琉球諸島に於ける古今の歌謡を集めたところの『琉歌大観』
 の稿本」と言う言い方をしており、笑古じしん伊波との共編を終始心づもりにしていたよう
 だが、ついに伊波の協力は得られず、未完に終わったということのようである。とすれば、
 出版されなかった最大の障害は、伊波がいう、真境名の加筆云々にあるのではなく、実は伊
 波がおもろを選び入れなかったことにあるのではないか、と思われてならない。おもろが入
 らなくては画竜点睛を欠くことは明白である。真境名の力量でおもろを五十首選ぶのはたい
 したことではなかっただろう。何故なら、彼もしばしばおもろを引用しているからである。
 それでも伊波の協力を待ちつづけたのは、伊波が自他ともに許すおもろ研究の権威でもあり、
 また中学以来の親友でもあれば、真境名はただ待つしかなかったのではないか。当否はなお
 定めがたいが、全体を読んでの率直な印象である。
  とまれ積年探し求めてきた「幻の琉歌集」である「琉歌大観」が、いまこうして手元にあ
 る。尽力された関係の各位に感謝しつつ、私には鑑賞と謎解きの至福の時が待っている。

   (いけみや まさはる:琉球大学法文学部人文学科(琉球文学)教授)


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