講師: 嘉手苅千鶴子(沖縄国際大学図書館長)
演題: 『琉歌の心』
場所: 沖縄県立芸術大学
日時: 平成12年6月19日
参加者: 41名
<講演会要旨>
琉歌に関わりのある文献3冊を通して、琉歌のありよう、琉歌の心を探っていこう。
一 『大島筆記』の琉歌
宝暦12(1762)年、4月26日に那覇を出た琉球の船が、天候悪く出戻りし、ようやく7月13日薩摩に向けて運天港を発ったが、15日の晩より16日まで大風に遭い、7月21日土佐国(高知県)の柏島の沖を漂流しているところを島の役人が見つけ、引船で大渡島へ引き、7月22日に土佐国大島の港に入る。9月末まで約2ヶ月間滞在。その間の記録が『大島筆記』である。
内容は、土佐国の儒者戸部良煕が、琉球役の潮平親雲上(53歳。福建へ数度、北京へ両度、江戸にも使者として上る。唐話に通達。)などから沖縄の事物百般について聞き取りを行い、それを記録したもの。
上・中・下・附録から成り、附録には「琉球歌」56首、「琉球人和歌」16首、擬古文(=和文)「雨夜物がたり」等が記録。写本も多数存在することから、当時、この記録があちこちで興味を持たれた証しとされている。
琉球歌56首中、特に後半の49〜56首は帰国を目前にした別れを悲しむ、これまでのご恩に感謝する、お礼の心を歌にしたものである。
行をがもことやふくらしやどあすが
わかれよることよかねておもひば (49番)
行をがもは、行拝む也。初て会し也。いづれもへ会しを悦び、
又別をかなしめる也。(出会えたことは嬉しいが、別れは悲しい)
『大島筆記』にみる琉歌の心は、土佐国の人々から受けたご恩に感謝の意を表し、琉球に帰国した後もそのご恩を忘れないためである。
<せめて御恩の忘れざるの便にもせん事也> 御恩・御礼の心
二『西遊記』の琉歌
新日本古典文学大系98『東路記 己巳紀行 西遊記』板坂耀子・宗政五十緒校注(岩波書店 1991年4月19日発行)
九州地方を中心とした諸方の巡遊記。十巻から成り、橘南谿(京都の医人)が医学修行のため、京都を出発し、帰るまでの間に見聞した奇事・異譚・名勝・旧蹟・人物などについて記述した巡歴の書。期間は天明二(1782)年から翌三(1783)年で、この年多くの琉球人(約1,000人)が薩摩に滞在していたといわれ、橘は、琉球から薩摩に医学修行のために渡り居た二人の琉球人、当間筑登之(紹達道)と喜屋武筑登之(顔鴻基)と極めて親しくし、その祝いの酒の席で琉歌が登場している。
きよのほこらしや。なをれかなたてろ。
つぼでおる花の。露けたごと。
此歌琉球にて祝儀の心あるうたにて、いつにても始メ終リには此歌をうたふ。此国の高砂のうたひなどのごとくなりとぞ。其歌の心は、けふの天気もよくなほりて、莟(つぼ)みて居る花も露置しごとくうるわしき、といふことのよしなり。
『西遊記』にみる琉歌の心は、お祝いの席で祝儀の気持ちを示すためにうたう琉歌のありようを示している。
<やゝ酒興に入りぬれば、顔鴻基、琉球三味線をひきて彼国の歌をうたふ、紹達道かたわらより和してうたふ。いと珍しくておかし・・・> 祝儀の心
三『南苑八景』の琉歌
仮称『南苑八景』。参考「『南苑八景』―解説と翻刻―」嘉手苅千鶴子(『沖縄国際大学日本語日本文学研究』第2巻第2号・平成10年3月20日発行)
編者、成立年次は不明。総数726首の琉歌を収録。表題の「南苑八景」の名称は、冒頭歌群(1〜72番)の総題によるもので、尚育王・浦添王子・大宜見親方・松島親方・登川親方・真謝里之子親雲上・与那覇里之親雲上が八景(春鶯・桃桜・南檀・夏冷・秋月・園菊・農家・松波)を題詠とする。
王国文芸として育まれた琉歌や歌人および琉歌集編纂の動向を知る手がかりとされ、田島利三郎が1897年書写した現存本『琉歌大歌集』の原資料となった一つと考えられる琉歌集である。
〔春鶯〕
尚育王御製 春のあけゝに山の鶯の
庭の花忍ぶ声のしほらしや (1番)
大和の和歌の作法に習って、題詠を決め、読み手が明記される(身分が高い順に歌を配列)など、和歌の影響が色濃くでた作品。
和歌=教養、文化、文芸と位置づけられ、役人たちの間で和歌的琉歌が広まっていくが、庶民には浸透しなかったといわれている。
『南苑八景』にみる琉歌の心は、和歌(大和歌)の影響を色濃く受けている。
<君がよろづ代の春にさそわれて ほける鶯の声のしほらしや>
御代の讃歌の心
現在でも各地で琉歌会が催され、琉歌は継承され続けているが、特にハワイの県人会による琉歌は、そのレベルも高いといわれている。
その背景として、沖縄と自分自身を結びつける望郷の念、技巧にとらわれない思い(喜怒哀楽)を素直に前面にだした琉歌が多いのではないか、と考えられる。それは、琉歌本来の心ともいえるのではないだろうか。