<創刊記念> 草創期の琉大と考古学
 
−回想雑録−

嵩元政秀

一、多和田眞淳先生との出合い
 私の入学(1952年)した頃の琉球大学は、首里城跡に開学して間もない木造瓦葺の教室の並ぶ緑の少ないキャンパスであった。一帯は未だ戦災の傷痕がみられ、城壁は崩壊したまま、守礼門や歓会門などは姿はなく、園比屋武御嶽石門は上部の屋根を一部残した半壊状態、ハンタン山のアカギの大木は幹のみの無惨な姿で立っていた。沖縄県師範学校跡に建つ男子寮(当初はコンセット寮)から、崩壊した城壁のデコボコ坂道を登り下りして通学したのが印象的で「下駄割り坂」の異名があったように、学生たちは下駄履きや改造米軍用靴で通学していた。キャンパスへの近道のこの下駄割り坂は学生専用ではなく、教職員の姿もみられた。現在の久慶門あたりから龍樋の東側へと通じていた。
 入学当時の大学のカリキュウムには、考古学に関する講義はなく、赤嶺康成先生の「日本史」の講義の中で、戦後の日本考古学研究の動向を知る程度であった。琉大に考古学の講座が開設されたのは1960年10月、高宮廣衞先生の考古学の講義が最初で、実習もその年の暮に行われている。
 私が考古学に興味を持ちだしたのは、多和田眞淳先生の講演を拝聴してからである。二年次の終り頃の54年1月16日、琉大の本館二階の講堂で「故島袋全発氏をしのぶ追悼文化講演会」があり、講師の中に多和田先生がおられ「琉球における貝塚について」の講演で、情熱的に沖縄における考古学研究の重要性を強調されておられたのに感銘した。当時多和田先生は琉球林業試験場長で、北は奄美諸島から南は八重山諸島の林業調査に出かける際は「多年小生が研究している貝塚を通しての日本民族移動の調査するのも個人的な大事な目的」(「東苑随想−奄美大島の貝塚分布−」『琉球新報』1954年1月8日〜14日)と記しているように、52年から55年頃にかけ文字通り孤軍奮闘、多くの貝塚を発見、研究しておられた。奇しくも講演会の翌日、琉球新報主催の具志堅ウージ遺跡(知念村)の発掘調査が行われ、発見者の多和田先生外、当時の錚々たる文化人や琉大の教授、助教授六名を含む二十数名で組織された大発掘調査団であった。史学及地理学科の赤嶺康成、富村眞演両先生の名もあり、当時、四年次だった照屋善彦氏(現琉大名誉教授)も参加されておられた。残念ながら小生は行けなかった。発掘調査は一日のみであったが、戦後沖縄における組織的発掘調査の第一号と言えよう。同年3月には多和田先生は金関丈夫、国分直一両教授らと共同で波照間島の下田原貝塚の発掘調査も行なっており、正に1954年(昭和29年)は戦後の沖縄にとって考古元年の年であった。

二、地歴クラブの仲間たち
 私が地歴クラブに入ったのはその年の4月、三年次になってからであった。部長は一期先輩の新田重清さんで、新田さんも多和田先生の教えで考古学の世界に入った一人、心強く部活ができた。クラブ員は地歴専攻の学生のみでなく、教育学部の学生も多く、郷土の歴史・文化や地理に興味をもつ仲間たちであった。部活の一環として、多和田先生に考古学の話をしていただいたり、先生が発見した貝塚に案内していただくこともあった。糸満市真栄里の海岸砂丘地にあった川田原貝塚が採砂で破壊され、一面に遺物が散乱、後期の特徴的な乳房状尖底土器を手にして感動したことを覚えている。考古仲間が日頃採集してきた遺物は、秋の大学祭には一室設けて展示もした。当時、大学の招聘教授・言語年代学の服部四郎博士が展示室に来られ、弥生式土器の出土の有無を尋ねられたことを今でも覚えている。「出土しません」と即答したものの、その後具志原貝塚(伊江村)で初出土、服部博士には申訳けなかったと思った。服部先生はその当時、金関・宮良論争に関り「琉球の言語と民族の起源」を新聞に発表され、南島の考古学の成果に注目、期待されていた時期であった。
 多和田先生の勤める林業試験場の事務所は赤平の虎頭山にあり、考古仲間は遺物を採集してくると、事務所にお邪魔をして教えていただき、時には赤田の自宅まで押しかけることもあった。1955年の夏、多和田先生の地荒原貝塚(具志川市)の発掘調査には、同級でクラブの仲間の島田昭君(元北部工業高校長)と二人「調査手伝」として参加させてもらったり、琉球政府文化財保護委員会から浦添ようどれの石棺の拓本採りの仕事をクラブの後輩の砂川恵昭君ら数名で数日かけて頑張ったこともあった。

三、米須浜、津堅両貝塚発掘の思い出
 1956年4月、琉球新報の招聘により来島された国分直一先生のシマシーヤーマ貝塚(久高島)の発掘調査には、クラブの後輩福原兼雄、砂川恵昭君も参加、政府立博物館に就職して間もなかった私も参加した。当時、文化財保護委員会の第二分科会(史跡、名勝、天然記念物及び民俗資料及び埋蔵文化財に関する事項)の専門審議員でもあった赤嶺康成先生は、来島中の国分教授に琉大での集中講義とその後の実習を兼ねての発掘を要請、国分教授指導による米須浜貝塚の発掘調査が行なわれた。史学及地理学科の学生にとって大いに勉強になった発掘で、これで学内での考古への関心が高まり、同年11月の津堅貝塚(勝連町)の発掘へとつながった。赤嶺先生より発掘指導を命ぜられた私は、同月9日男子寮広場に集合した地歴クラブの後輩十数名と共に先発隊として琉大バス(トラックを改造)に乗込み屋ヶ名港へと向った。赤嶺先生直々の引率であった。島の人々は私たち調査団を大歓迎、男子学生は学校長公宅、女子学生(四名)は比嘉繁三郎教頭宅、赤嶺先生は旅館に投宿することになった。翌日には中山盛茂、富村眞演、友寄英一郎、祖慶良浩先生らも来島、地歴の先生方総動員の発掘調査であった。調査中日の夜は、港近くの砂浜で友寄、祖慶両先生招待の“キャンプファイヤー”があり、全員11時頃まで昼の疲れを忘れて楽しんだ。この発掘の成果は報告書に譲り割愛しますが、米須浜や津堅で自らの手で、額に汗して貝塚を発掘体験したことは、卒業後の教壇生活などに大いに役立ったことと信じている。ただ心残りなのは、発掘に参加した学生の中から数名は考古の仲間に入ってくれると期待をしていたが、誰もついてこなかった。
 琉大考古学の第二ラウンドはこれから数年後、高宮廣衞、友寄英一郎両先生が考古学の講義をもち、考古学実習が行なわれるようになってからと言えよう。
 
 本稿を草するに当り、高宮廣衛、照屋善彦両先生をはじめ、地歴クラブの先輩後輩から種々ご教示いただいた。特に新田重清先輩には当時の文献や写真を拝借した。
 仲間の皆様に末筆ながら感謝を申しあげ、拙い回想雑録を結びたい。
(本学非常勤講師、沖縄考古学会会長)

▲写真1川田原貝塚の調査記念撮影(1954年夏)
多和田先生(前列中央)と地歴クラブの皆さん(新田重清氏提供)
▲写真2 琉球大学地歴クラブ初期の機関誌(『琉大史地』第2・3号)(新田重清氏提供)