〈研究論文・報告〉

香港考古学の近況

後藤雅彦

はじめに
 近年、香港を含めた珠江三角洲地域における考古学研究の目覚しい成果は、中国ばかりでなく、東南アジア地域、そして環東中国海地域の先史時代研究の進展に大いに寄与するものと考えられる。とくに1997年の香港返還(復帰)は中国考古学界にも少なからず影響を与えた。例えば、考古学の専門雑誌である 『考古』1997年第6期は、香港考古学を特集しており、その編集後記には、「香港は珠江口東側に位置し、古くから中国領土と分割できない一部分である。大量の考古資料は香港が祖国大陸と同様に、悠久の歴史と揺籃な文化をもっていたことを示している。(中略)同時に、香港は東南沿海に位置し、古来よりの南中国海における対外交流の解明に対して重要な役割を担っていたのである。この特集では、様々な角度から70年来の香港考古学における発展の流れを回顧し、香港考古学の主要な成果と重要な学術問題について論述している」とある。
 また、最近でも、香港返還(復帰)2周年を記念して、『考古』誌上で、香港考古学の特集を組んでおり、香港考古学の成果が注目されている。 
 こうした香港における活発な調査・研究活動、さらに珠江三角洲地域における貝塚及び砂丘遺跡の発掘調査の進展が、今後、珠江三角洲地域における先史文化の解明に大きな促進力になると考えられる。
 
一、香港考古学をめぐる研究状況
 1997年には、前述したように『考古』以外の考古学関連雑誌でも香港考古学に関する文献が数多く掲載された。これらには、香港考古学の研究史及び現状をまとめた文献が多く、香港考古学が多様な展開をもっていたことを物語り、さらに今後の展望を検討する上でも大いに参考になる(註1)
 とくに研究史を振り替えると、研究調査の主体者(担当者)の多様性、研究調査対象の多様性が指摘できる。商志、呉偉鴻両氏(1997a.b)は、次の二つの視点で研究史を端的に整理している。まず、野外調査として、20年代は表面採集段階、30年代〜70年代は深度発掘段階(人工層位による発掘)、そして、その後の系統発掘単位(context)段階としている(註2)。また、研究方面では、20年代〜60年代にかけては、東南アジアの古文化との対比が行われた。これは、同時期、中国華南地方の考古資料が少なく、また研究主体が欧米の研究者であり、彼らが一方で、東南アジア地域の考古学研究にも精通していたことがその要因の一つとしてあげられる。そして、60年代以降、中国大陸の古文化との対比が行われ始めるが、これは、中国各地で考古学資料が確認され、諸地域間の関係に関心が高まっていく情勢と一致すると考えられる。
 このように、研究史の中でも、香港の先史文化の位置付けを、中国大陸の中で、あるいは東南アジアの中で捉えることに関心が払われていた観が強いが、香港考古学の現在における一つの到達点として、香港の先史文化を時間軸の中で捉えることができるようになったことがあげられる。やはり、一昨年の文献をみても、香港を含めた珠江三角洲における時期区分に関する文献が含まれており、当該地域における編年研究を的確に整理する必要性を痛感させられる(註3)。拙稿(1999)でも、香港を含めた珠江三角州地域の時期区分として、7期に区分し、北江流域との相対年代も踏まえて、新石器時代中期(前石峡文化)1 ・2期、新石器時代後期(石峡文化〜石峡中層への移行期)3期とし、それ以降を先越系文化期と暫定的に設定し、4〜6期を石峡中層併行、7期を石峡上層併行とした。本稿でもこれを踏襲するが、各時期の移行期に関しては、十分に検討されているわけでなく、各遺跡の層位の把握なども課題として残されている。また、今後、細分化の方向が求められることは、遺跡間の関係などを吟味する上でも、一つの課題となる。その為には、遺物の出土状況を把握し、その基礎的なデータの検討という繰り返しが必要であろう。
 さらに近年の傾向として、珠江三角洲における遺跡の性格をめぐる問題を扱う文献が目立ち、新たな方向性を示すものとして注目されるが、その問題の所在を別稿で明らかにした(註4)
 また近年、香港において学術シンポジウムが多く開催されており、発表されたテーマは、香港をめぐる考古学上の諸問題が端的に示されている。この数年間にも、筆者が知る限りでも3つの国際会議が開催されている(註5)
(1)1994年 『第2回南中国及隣近地区古文化国際学術討論会』(香港中文大学中国文化研究所主催、中山大学人類学博物館の共催)
 牙璋、彩陶を中心に珠江三角州地域の先史文化の位置付けを検討するものであった (註6)
(2)1995年 『東南亜細亜考古学会議』(香港大学美術博物館主催、古物古蹟事處共催)
 香港を含めた珠江三角州地域や南中国の事例の他に、ベトナム、フィリピン、インドネシアの研究が報告され、さらに、文化財の遺修復や発掘技法、保存・保護という考古学全般に亘っての報告がなされたのが特徴である(註7)
(3)1998年 第3回 『南中国及隣近地区古文化研究国際会議』(香港中文大学中国文化研究所主催)
 中国各地ばかりでなく、東アジア各地の玉器生産の研究報告がなされた。これは、近年、香港を含めた珠江三角州地域で玉器生産遺跡が数多く、調査されており、それらの中国大陸、近隣地域、さらに東アジア世界での位置づけを意図したものであろう(註8)
 ところで、香港(総面積 1062キロ平方メートル)の考古資料として、遺跡数がどの程度考えられているのであろうか。聰氏(1994)は、1992年に古物古蹟事處の発表をもとに、全遺跡数1万以上としており、その中で、香港各地域の遺跡数は、ランタウ島(35%)、ランマ島(14%)で、総数の過半数近く占めるのに対し、香港島や九龍半島では5%にすぎないとしている。しかし、これはもともとの遺跡数を占めるのではなく、香港島や九龍半島ではすでに相当数の遺跡が破壊されていることを示すものと指摘している。

二、最近の調査から
 香港における最近の調査の傾向として、まず香港の新飛行場(ランタウ島北部における新飛行場の建設と、飛行場と九龍半島を結ぶ橋梁・高速鉄道の建設)及び港口の建設工事を中心として開発工事などに伴う緊急調査が増加していることがあげられ、1990〜1994年にかけて32件実施されている(招1995)(第1図)。また香港中文大学は国内外との共同調査を実施し、東湾、大湾遺跡などにおける層位的な調査から、編年研究の促進を促した。その中で、中国大陸側の研究者との共同調査を実施しており、1987〜1989年にかけて実施された東湾遺跡の発掘では、中山大学人類学系、深博物館との共同調査を試みている
 また、香港古物古蹟事處は、香港全域を11地区に区分し、1997年より第2次の全港分布調査を実質的に行なっており、その成果も注目される。ここでも、深博物館、中山大学人類学系、広州文物考古研究所、広東省文物考古研究所、湖南省文物考古研究所、陝西省考古研究所という6つの中国の研究組織に委託して分布調査が行われている。こうした中国の研究者・研究組織との関係は、研究調査における交流を促進すると考えられるが、現実問題として、香港特別区の行政において埋蔵文化財の担当者が少ないと言うことも要因の一つとしてあげられるであろう(註9)
 こうした香港における考古学調査の近年の状況として、『考古』 1999年6期の香港考古学特集の編集後記でも指摘されているように、香港と中国国内の研究組織との合同調査が進展する中、分布調査によって遺跡の確認がなされ、ある程度の規模をもった発掘が行われていることが特徴である。一方、これらが、開発に伴う事前調査である場合が多いことも現実問題として見逃せない。
 最近、調査された遺跡として、まず馬湾島東湾仔北遺跡があげられる。1997年6月〜11月にかけて、香港古物古蹟事處と中国社会科学院考古研究所の合同で発掘調査が実施され、新石器時代中後期から青銅器時代にかけての層序関係(3つの文化層に大別)が明らかになった。同遺跡の主要な時期は、中層文化(本稿の第5期に相当)で、墓葬19基、豊富な遺物が出土した(香港古物古蹟事處他1999、韓、董1999)。
 また元朗下白泥呉家園遺跡は、香港全域の分布調査によって、1997年9月に確認された後、香港考古学会(註10)によって1997年11月から1998年1月にかけて発掘調査が実施され、3つの文化層が把握され、中層(本稿の第5期相当か)から版築技術も認められる住居址が検出された(香港考古学会1999)。
 このような新たな調査による資料の蓄積から、浮かび上がってきた研究課題について、次にみていくことにする。

第1図 香港の遺跡(過去5年間で緊急調査が実施された遺跡及び本稿でとりあげた遺跡)


三、個別の研究テーマ
 ここでは、香港を舞台とした考古学の研究テーマとして、現在、何が関心もたれているか整理してみたい。 
  昨年11月から本年1月まで香港中文大学において、「十年考古収穫展」が開催された。その中でとりあげられた展示テーマは、次の5つであった。
1 樹皮布文化(1996年に大湾遺跡において、樹皮布文化を示す遺物(石拍)が出土)
2 牙璋(1990年に大湾遺跡(6号墓より)出土にて出土)
3 香港出土の青銅器(1962年、ランタウ島石壁遺跡より人面弓形格青銅剣が出土)
4 玉石器の製作
5 香港の居住遺跡
 これらの研究対象を整理すると、まず、香港の先史文化の位置付けを明らかにする為に、外との関係を示す考古資料の検討があげられる(1〜4)。次に、香港全域の考古資料の把握が行われていることによって、地域内(香港を含めた珠江三角州内)の問題として、各遺跡の性格や動態に関る視点である(4・5)。 
 これらの研究対象の中で、珠江三角州地域全体に関わる新石器時代を中心とした課題として、幾つかの点に触れてみたい。
 まず、1については、従来、土器製作の叩き具としての用途が想定されていた石器(石拍)に対し、聰氏らが、樹皮叩き具である可能性を指摘し(、黄1994)、南中国から、さらに東南アジア、太平洋地域に広がる樹皮布文化の源流を探る上で、関心が高まっている(第2図)。また、新石器時代中期における地域間関係として、従来、縄蓆文土器を指標として、台湾海峡両岸地域の共通性が指摘されていた。しかし、近年、各地の土器群の様相が明らかになるにつれ、地域差が強く認識されるようになった。その中、西江清高氏(1995)も指摘しているように、両岸地域において石製樹皮叩き具を共有している点は、両岸地域の文化関係を探る上で興味深い。
 一方、珠江三角州における石拍の出現と消長をみてみると、石拍は、新石器時代中期に出現、盛行するもので、後期になると、土製紡錘車が一般化しており、織布文化との関わりも問題となってくると考えられる。但し、新石器時代中期に石製紡錘車の出土例もあり、織布の出現についてはさらに検討を要する。織布技術の系譜を如何に捉えるか、長江流域などの周辺文化との関係も含めて検討することも必要ではないだろうか。
 4について問題となるのは、まず珠江三角州における玉器の系譜問題であり、外との関係として、長江流域との関係も指摘され、珠江三角州と周辺地域との関係を明らかにする上で、重要な指標となろう。とくに、長江流域との文化関係については、北江流域(石峡文化)との関係を含めて、拙稿(1996)においても、検討したことがある。また玉器製品の生産と流通から、珠江三角州内の遺跡間関係が浮かび上がってくると考える。
 5の住居址について、前述した東湾仔北遺跡や呉家園遺跡のような砂丘遺跡の発掘調査で、柱穴、竃坑、土坑や紅焼土などの居住に関わる遺構、その周辺からは墓葬も確認された例が増加している。これは、発掘面積の拡大や調査方法にも関るが、遺跡内における遺構の面的な広がりが捉えられることによって、今後、砂丘遺跡における居住のあり方を遺構から検証することになっていくと考えられる。

第2図 香港出土(湧浪南)の石拍

まとめ
 香港考古学を取り巻く状況として、綿密な分布調査及び発掘調査によって、資料が蓄積され、それと同時に方法論に関わる議論も活発になっていくことであろう。さらに、香港考古学には、様々な意味で、中国と東南アジアを結ぶ接点としての役割が期待される。これは考古学的にも、香港の位置付けとして、中国と東南アジアの文化的な接点であることが明らかになりつつあることにも大いに関るが、研究活動面においても香港考古学の役割が浮かび上がってきているのである。ここ数年、香港で国際学会が多く開催されていることにもそのことが窺える。
 厳文明氏は、香港考古学の今後の展望を述べる中、香港考古が有利な点として次の二点を挙げている(厳1997)。まず、考古学研究者が様々な出自をもち、異なる訓練を受けていることである。それらが組織だって共同調査を実施できれば、香港考古学だけでなく、華南地区さらに東南アジア考古学に有効な作用が及ぶ。次に、香港の特殊な位置から、東南アジア諸国との関係が密接で、情報が集まっている点である。中国南方と東南アジア世界は古代においても密接な文化関係が認められ、共通する研究課題も数多くあり、今後、各国との共同調査が進展していく中、香港がその掛け橋になると述べている。
 しかしながら加藤晋平氏が、香港の東南アジアにおける考古学研究の主導的な地域を期待しながらも、経済開発による遺跡の破壊を危惧しているように、多くの課題を残している事もまた現実と言えよう(加藤1995)。 
 珠江三角洲地域の新石器時代研究がますます進展していく中、香港考古学に対する関心もさらに高まることであろう。そして、香港における調査研究活動に関わる動向は、香港や中国内の考古学上の問題としてばかりが、広く東アジア地域の考古学に反映されるものとして、今後、目が離せない様に思う。

謝辞
 筆者は1998年末に香港・広州を訪問する機会を得ることができ、香港考古学の現状をいくらか垣間みることができたと思う。訪港中、そして本稿を草するにあたって、多くの研究者諸氏にご教示いただいた。
 とくに鄒興華氏、孫徳榮氏、馬文光氏(香港古物古蹟事處)、聰氏、黄韻璋氏(香港中文大学)、李美樺氏(香港歴史博物館)には貴重な助言、文献を賜った。記して感謝申しあげます。


(1)研究史及び研究の現状に関する主な文献には、安志敏氏(1997)、聰氏(1997)、商志、呉偉鴻両氏(1997a.b)をあげることができる。  本文へ↑

(2)系統発掘単位を捉える発掘方法について、商志、呉偉鴻両氏(1997b)は次のように紹介している。すなわち、イギリスの考古学者エドワード・ハリスによって開発され(ハリス・マトリックス)、1984年に実施された湧浪遺跡の試掘で香港に導入され、1993年以来、香港古物古蹟事處は、政府関連の発掘調査において、記録としてContext 表を使用するようになった。このContext の中国語訳として、存在状況、系絡、系統発掘単位、堆積層・遺跡(遺構に相当)があげられている。  本文へ↑

(3)時期区分に関する主な文献には、商志、呉偉鴻両氏(1997)、商志、毛永天両氏(1997c)があげられる。  本文へ↑

(4)香港を含めた珠江三角州における遺跡の動態について、別稿(1999)にて検討している。その中で、従来、砂丘遺跡として一括して性格付けされていたのに対し、主要遺跡と次要遺跡にわける李果氏(1997)らの見解を高く評価し、中核的な遺跡の存在を考えた。  本文へ↑

(5)それ以前にも 『第1回南中国及隣近地区古文化国際学術討論会』(香港中文大学中国文化研究所と中山大学人類学系、深博物館の共催)が開催され、会議にあたって、図録が作成された(香港中文大学中国考古芸術研究中心他1991)。また1993年には、『嶺南古越族学術討論会』(香港博物館と中山大学人類学系、深博物館の共催)が開催され、同会議にともなって、『嶺南古越族出土文物展』が開催され、図録が作成された(香港博物館 1993)。  本文へ↑

(6)その内容として、論文集がまとめられており(香港中文大学中国考古芸術研究中心1994)、テーマとして、牙璋、彩陶を中心に論考52編が収録されている。  本文へ↑

(7)その内容は、論文集としてまとめられており(楊、李編1995)、その内訳は以下の通りである。

  1. 東南亜地区史前文化通論、
  2. 考古遺跡及び専題研究(個別研究)
  3. 古物修復、鑑定、発掘技法
  4. 文物古跡的保護及び法令
  5. 香港考古研究     本文へ↑


(8)論文集(3冊)が出版され、計77編の論文が掲載されている(香港中文大学中国考古芸術中心1998)。
その内容は以下の通りである。

  1. 玉器文化総論
  2. 中国新石器時代玉器文化(東北・新疆、黄河流域、長江流域、福建・広東・海南・台湾)
  3. 中国歴史時代玉器文化、先秦、秦漢から清、
  4. 玉器工芸及び玉材鑑定、
  5. 東アジア及びその他の地域の玉器文化、ロシア、モンゴル、日本、韓国、フィリピン、ベトナム、タイ、その他    本文へ↑


(9)1998年に刊行された 『香港文物』第2巻第1期に記載されている古物古蹟事處の職員名簿をみると考古組として、館長1名、遺跡保護2名、田野考古2名になっている。  本文へ↑

(10)香港考古学会は、1967年に結成され、1997年に30周年を迎えた。  本文へ↑

引用文献

(本学法文学部助教授)


写真 香港歴史博物館(所在地:九龍尖沙咀漆咸道南100号)

 博物館(香港博物館)は、もともと九龍公園にあったが、旧館は1998年8月末に閉館した。新館は、九龍駅付近、香港科学館の対面に建設された。常設展示は2000年に向けて準備中であるが、特別展がすでに開催されている。筆者が1998年末に訪港した際にも、『天工開物−中国古代科技文物展』(1998年9月29日〜1999年1月3日)が開催されていた。