〈研究論文・報告〉

大里グスク発掘調査について

山里昌次

はじめに
 私が大里グスクの発掘調査に携わったのは、平成6年度に大里村教育委員会へ採用されてからである。それまで大里グスクにおいては、試掘調査が数度行なわれたのみであり、その全容はつかめないままでいた。そのような中、本遺跡を含む周辺地域に都市公園を建設するという計画が実施されたことをきっかけとして、大里グスクの内容を確認するための発掘調査が必要となり、私が採用されることとなった。
 まず、発掘に先駆けて本グスクの範囲をある程度認識するため、地元の方々の協力を得て、聞き取り調査を実施した。その後、聞き取りによって予測された範囲内でトレンチ掘りによる発掘調査を実施して、大里グスクの範囲の確認を行った。
 大里グスクの現況は、戦前まで崩れた城壁が残っていたが、戦後の採石によって大きく改変され、今は一部の城壁残存部を残し、往古を偲ぶこともできないほど跡形もなくなっている。そのような中での範囲確認調査であったため、城壁が残っていると推測される部分にトレンチを掘り進めた。
 調査は平成6年から実施されており、現在も継続して実施中である。これまでの調査によって、大里グスクの範囲はほぼ確認できるところまでになっており、現在は消えてしまった城壁が、発掘を行うことによって地中から顔を出し、自らの大きさを顕示している。

一、大里グスクの概要
 大里グスクは、大里村の東側に延びる標高150m程の石灰岩が発達した舌状丘陵上の北縁に位置している。北側は急峻な崖をなし、東側は丘陵縁までゆるやかなに傾斜しながら迫地状を形成し、丘陵を下り与那原の海岸へと続いている。南側は字西原の集落(『球陽』によれば、当地には1781年に移動、それを示すかのように当集落は碁盤目を呈している)が接し、平場を形成しているが、さらに進むと崖状をなしている。西側は北側同様に崖状をなしているが、一部丘陵とつながる部分が窪地をなしている。そのため、西原集落を含む大里グスクは孤立した状態で所在している。
 大里グスクは、崖を背にし、堅固な城壁と天然の地形を巧みに取り入れたグスクである。ここからは、東側に中城湾を中心として与勝半島から知念までが一望でき、中城グスク、勝連グスク、佐敷グスクが見える。北側には首里グスク、弁ヶ嶽が位置する首里一帯の丘陵地が見える。西側には県庁等の那覇市街地が見え、さらにその先に慶良間諸島等が見える。南側には南部の丘陵地が広がり、大城グスク(大里村所在)、糸数グスクが見える。この大里グスクから見ることができる多くのグスクは、当時大里グスクと覇を競った有力なグスク等であり、大里グスクは常にこれらのグスクの動向が見て取れた地点に位置していたことがわかる。
 大里グスクは、別称「島添大里グスク」とも呼ばれ、当主であった島添大里按司によって築城されたといわれている。島添とは「島々を支配する」という意味があり、当時の島添大里按司汪英紫は島尻地域の東半分である東四間切(大里・佐敷・知念・玉城)を支配下に置くほどの一大勢力を誇った武将であり、自らを“下の世の主”と称したといわれている。また、盛んに明との朝貢貿易を行っていたことが 『明朝録』らに記されており、その権勢の一旦がうかがえる。
 しかし、汪英紫亡き後の島添大里按司は、当時佐敷グスクに居城し、佐敷一帯を治め、徐々に勢力を拡大しつつあった琉球王朝創設者の佐敷小按司尚巴志によって攻略され、島添大里グスクは落城した。その後、尚巴志の三山統一の拠点のグスクとなり、中山を征討した後に首里グスクへ移転するまでの間居城していたといわれており、その移転の際に城壁の一部が首里グスクへ運ばれたといわれている。その後の大里グスクは、琉球王朝の支城として使われたようで、尚泰久王代に作られたといわれる「雲板」がグスク内からみつかっている。
 大里グスク内には、カニマン御嶽やウテンチヂ等の御拝所のほか、スクヤマヌカー、スクナシガーの2つ涸れた井戸が存在する。周辺地には南側城壁に接してチチンガーが所在し、北側崖沿いには大里按司の墓が所在する。さらに、大里グスクの物見台と考えられる衛星グスクであるミーグスクや大里グスク以前の居城といわれるギリムイグスク、物見台的平場をもつ真手川遺物散布地、武器庫ともいわれているフタバカ、仏教とも関連するテラガマ等のグスク時代相当の遺跡が点在し、グスク的空間を有している(第 12 図)。その他、高台にあったために第二次世界大戦中には陣地として利用され、砲台や塹壕の他、「球部隊」が使用した陣地壕などの戦争遺跡が点在している。
 以上が大里グスクの概要である。続いて、これまでの調査の経過を記述していく。

第1図 大里グスクと周辺

第2図 大里グスク全体図

二、調査の経過
 本遺跡が初めて調査されたのは、平成2年度に行われた村内詳細遺跡分布調査の時である。その際、本遺跡において3つの重要な確認がなされた。1つは本遺跡の北東側崖沿いに城壁が確認されたことである。このことによって本遺跡の東西軸の長さが200mに達することが確認された。2つめは一の郭を囲む城壁残存部が確認されたことである。3つめは正殿の位置がこれまでいわれていた位置より北側で、一段高い部分に位置することが確認されたことである。この地点からは数箇所で礎石が原位置で確認された他、石敷の遺構が確認されている。
 続いて平成4年度に正殿の試掘調査が実施された。ここでは十字にトレンチが設定され、本殿の規模等が確認された。正殿の礎石の間隔は2.6m5であり、5 間×8間の規模をもつ正殿が想定されている。この他に方形壙や排水口、崖沿いの城壁基礎部等が確認されている。この調査によって、本殿が基段を造って一段高くした上に築かれていることが確認され、これまで正殿跡といわれていた部分が御庭にあたることが確認された。
 これらの成果を踏まえて、平成6年度から範囲確認のための発掘調査が実施された。平成6年度からは城壁の基礎部分を捜すことを第一義として発掘が進められ、北側崖沿いを除く東側〜西側にかけてトレンチ掘りによる調査が20箇所に実施された。発掘は残暑の中、9月〜10月にかけて実施している。発掘地点の草刈りから始まり、発掘地域の地形測量を実施したのち、トレンチを設定し、発掘を始めた。発掘を開始した当初は、まだまだ暑く、日差しも強いが、日に日に涼しくなっていき、夕闇が足早に訪れるようになってくる。
 今回の発掘調査によって、地中から顔をみせた城壁の基礎部分は9箇所みられた(第3図)。これらの城壁基礎部分に使用されている石材は、琉球石灰岩であり、その形状は一定しておらず、自然石を若干加工して利用している。積み方は1段を単位として、なるべく横目地が通るように丁寧に積み、やや細長い石材を利用しており、控えも十分に取り、石と石が摺り合うよう強固に積みあげる積み方を行っている。石面の凹凸が著しく、やや雑な仕上げになっている。また、城壁は粗放な野面積みながら積み方は要領が良く、なかなか崩れない。さらに中込め部分には縦・横に一定間隔で石列の枠取りが行われており、より強固に仕上げられている。また、城壁を地山に直接積みあげる際は、地山面を使用する石材の長さ分だけ若干掘り下げた後に石材を積みあげている。また、城壁は幅5程度を測り、70°程の傾斜角をもって立ち上がってる。この他の遺構としては、溝状遺構、土壙、小穴、砂利敷道路等がみられた。
 溝状遺構には内部に多量に焼土を含むものや細く、浅い円形を呈するもの、近現代の遺物のみが含まれているものもみられた。内部に焼土を含む遺構は、火を使用した遺構と考えられるものであり、城壁に近く、丘陵の裾に風を避けるように掘り込まれている。円形の遺構は周辺に小穴が多くみられることから、住居跡とも推測されるが、確認するにはいたっていない。近現代の遺物のみを含む遺構は、戦後の採石によって抜かれた城壁部分の可能性が考えられるものである。
 小穴には楔石や礎石を含む柱穴が大半を占めているが、僅かに木の根と推測されるものも含まれている。中にはグスク土器を逆さにして納めていたと思われる小穴がみられた。このような発掘例はあまりみたことがないので、その意味については不明である。
 土壙はあまり特徴的なものはみられていないが、Fトレンチで検出されたものの中には獣骨等を多く含むものがみられた。
 遺物は、沖縄貝塚時代前期土器、貝塚時代後期土器、グスク土器、須恵器、類須恵器、白磁、青磁、青花(染付)、褐釉陶器、黒釉陶器、中国製陶器、東南アジア製陶器、タイ半練土器、伊万里焼、石器、鉄器、青銅製品、骨製品、貝製品、土製品、玉、銭貨、自然遺物、沖縄製陶器、近現代遺物がみられた。
 貝塚前期土器には、伊波式・荻堂式・大山式であり、現段階では本遺跡最古の出土遺物である。後期土器はいわゆるフェンサ下層式土器であるが、出土数はそれほど多くない。グスク土器は多量に出土しているが、大部分が胴部の小破片である。口縁部から確定できた器種には鉢形・鍋形・壷形・碗形がみられた。白磁は玉縁碗や口禿皿等がみられたが、多くはビロースクタイプの内彎碗や外反碗であった。青磁は、碗・皿・盤・壺・鉢などがみられた。碗は劃花文や鎬蓮弁文、無鎬蓮弁文、雷帯文、弦文、玉縁口縁、外反口縁等がみられた。皿は口折皿や稜花皿、蓮弁文皿がみられた。盤は鍔縁を呈し、内側に櫛目文が施されたものがみられた。壺は酒会壺の蓋がみられ、鉢はすり鉢がみられた。
 褐釉陶器や黒釉陶器、中国製陶器、東南アジア製陶器の出土数はそれほどみられておらず、その生産地ははっきりとしていない。鉄器は刀子が何点かみられており、その中の1点には鞘と推測される木片や獣骨が付着している。骨製品には表面を丁寧に仕上げ磨いているものがみられ、簪と推測された。土製品には木の実を象ったと思われるものがみられたが、用途は不明である。玉は縦に使用によるすり跡がある石製の丸玉と青色の人工ガラスによる管玉の破片がみられた。その他、獣骨や貝殻など多くの自然遺物がみられた。
 以上のような成果から、大里グスクの時期を推測すると、中国製磁器の年代から12世紀末〜16世紀までの範囲に位置付けられ、その盛期は14世紀〜15世紀初めまでと考えられる。これは、発掘によって出土した遺物の多くが14世紀代に位置付けられているものであり、その前後の遺物の出土数が大きく減少している点から、そのように考えられるものである。また、大里グスクが佐敷小按司尚巴志(琉球王朝創始者)によって滅ぼされたとされる時期が琉球王朝の歴史書 『中山世鑑』や 『中山世譜』において15世紀の初め頃と記されている点も、今回の発掘調査における出土遺物の時期と一致する。これらのことから大里グスクの最盛期は14世紀頃と判断するものである。しかし、尚巴志によって滅ぼされた後も大里グスクは使用され続けられていたことが、正殿の試掘調査や歴史書によってわかっている。正殿の調査では15〜16世紀代の遺物が主要な遺物として出土しており、それ以前に位置付けられる遺物の出土はあまりみられていない。これは、大里按司が破られた後、尚巴志によって新たに正殿が建てられたためと考えられる。なぜなら、尚巴志は大里グスクを拠点として三山統一をなしたともいわれているからである。また、『李朝実録』によれば、三山統一後には離宮として使用されていたことが記されている。

第3図 Eトレンチ石積み断面図

三、今後に向けて
 発掘調査によって、これまでほとんどが手つかずのままであった大里グスクの様相がわかりかけてきている。
 大里グスクの規模は東西200m、南北100m、面積20,000平方m程に達することがほぼ確定された。これは、当時存在したグスクの中でも10指に入る程の大きなグスクである。また、グスクの内部は北側崖を背にして、一の郭を配し、そこから南側へと放射状に広がり、そこには少なくとも3つの郭が存在していたことが聞き取り調査によってわかっている。これは、今後の調査によって明らかにしていく必要があろう。さらに、グスクの成立や増改築を理解していく必要があろう。これまでの調査では、発掘箇所によって、その遺物の出土状況が大きく異なる傾向を示している。これらのことをさらに詳細に検討することによって、グスクの変遷がみえてくるものと考えられる。
 また、グスク本体のみならず、そこにひろがるグスク的空間にも目を向けなければならない。大里グスクの周辺には衛星的なグスクであるミーグスクやギリムイグスクが東西に位置しており、大里グスクの死角となる部分を補っている。この他に、グスク時代の遺物が表採できる真手川遺物散布地も同様に北東側の死角の部分を補って存在している。さらに、現在の西原集落自体が本村の東側に延びる丘陵の東端に位置し、集落西側の部分が大きな谷間(堀切りか?)によって丘陵より分断されており、独立した格好となっている。これは、大里グスクと西原区を合わせた本地域が大きな目でみたグスク域と考えられ、それらを含めた西側を除く、他の部分の丘陵裾までをグスク的空間としてとらえて、グスクの保存を考えていく必要があろう。
 今後は、これらのことを踏まえつつ、さらに詳細な調査を実施して大里グスクの全容を解明し、保存整備していく必要があろう。

おわりに
 今回の報告は、私が関わった4年間の発掘調査の成果を記したものである。稚拙な報告となってしまったが、本報告は報告書として刊行しているので、詳細は報告書に変えさせていただきたく、ご了承願いたい。

謝辞
 発掘調査や報告書作成時においては、文化庁や沖縄県教育庁をはじめ、多くの方々より御指導・御鞭撻を賜り、感謝を申し上げます。

〔編集追記〕
 山里氏より原稿をいただいた後、本号を刊行するまでに1年以上の月日を費やしてしまったことをお詫び申し上げます。なお、本文に関わる報告書は以下の通り刊行されています。
 沖縄県大里村教育委員会  『大里城跡−都市公園計画に係わる緊急確認発掘調査報告書(1)』 大里村文化財調査報告書第3集  1998年
(大里村教育委員会)